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書斎廊下。

離れ。

離れの場所には、以前は茶室があったそうですが、御殿場に移されたとか。  

山縣氏が譲り受けてた後で、跡地に離れが造られたそうです。

離れの奥の部屋・木が高くなる前はここから富士山が見えたそうです。

書斎の手前が仏間になっているそうで、ここまでが木堂翁の住んだ初期の白林荘だそうです。

増築された研修室の食堂にお邪魔し、奥様からお茶をご馳走していただき管理のお話し等を、うかがいました。 

 白林荘は今は、山縣家配下の内外汽船の管理会社が運営しているそうで、研修所として、年数回利用される程度だそうです。 

 敷地面積は、12500坪あるそうで、固定資産税もともかく、庭を維持するのも大変だとか。 

  個人の所有なので、自由に出入りされるのも困るそうですが、依頼があればいつでも見せてくださるそうです。 

 邸内には、鹿は増えたそうですが、野兎は減ったそうです。 

 食堂にあった木堂翁の書・離れの書はあやしいがこちらは本物だそうです。

王臨川の詩碑。 

 生前木堂翁が愛唱していた詩だそうで、「終日山を看て山に厭きず、山を買って終に老いを山間に待つ。 ・・・」と、

白林荘での心境を代弁していたのかもしれません。 

 碑は、木堂翁直筆の書が残っていたので、山縣氏が白林荘修復の際に造ったものだそうです。 

 石は、霧ヶ峰の石を探して来たものだとか。

孫文から贈られた鉢植えの木・雲龍柳・龍爪柳。  

果穂には龍の爪がいっぱい。

木堂は、護憲運動を進めでおり、朝鮮・中国から亡命してきた活動家達とも親交が深かったとか。

白林荘の名前の元となった白樺林。 

 白樺は木堂翁が自ら苗木を育て、村の若者達が植えたものだそうです。  

庭は自然林の形で良く管理されており、また林の中に踏み入る人も少ない様で、

地面は落ち葉でフカフカしており、キノコも色々と生えていました。   

  林間に見る夏紅葉。

老栗亭の前に有る、3本の栗の大木、名前の由来はこの栗の木からだとか。

老栗亭。 

木堂翁は本草学・植林にも関心が有ったそうで、二十世紀梨の名づけ親でもあるそうです。 

 ここ老栗亭で村人達と語らい、この痩せた土地に合ったものを取り寄せて栽培させていたとか。

  邸内にある、栗や朝鮮五葉もそんな中の一つだったのかもしれません。

神戸から移築された山縣家の門。 

山縣家から移築されたものに、茶室もあつたそうですが後に、下諏訪のお寺・慈雲寺?に移築されたそうです。

白林道場・山縣家の門の先に大きな建物がありました。 

 山縣氏が、白州に有った繭問屋?の建物を移築したものだそうで、研修場として使っているそうです。 

 辰馬家は灘の酒造家(白鹿酒造)だったそうですが、海運・金融で財をなしたそうです。 

 山縣氏は、そんな辰馬家から出て、酒問屋・山縣家に入ったそうですが活躍の場は、海運の場だった様です。

  そこで山縣記念財団もつくられたとか。

ヤマユリの群生する処を見学。 

 ヤマユリは日当たりの良い所を求めて、23年で移動するそうです。

 

正面奥の大木は初代の花の木。

3年ほど前に初代・花の木の樹勢が衰えたのを知り、

初代の花の木を送った木曽の板岩さんの曾孫さんが贈ってくれた木だそうです。

今は初代の花の木の樹勢もだいぶ回復した様でした。 

 木堂翁は庭造りのおりに、江州の神社にあったものを、聖徳太子が長光寺に植えたのが始まり

ともいわれる花の木を探していたがなかなか見つからなかったそうです。 

 白林荘に木を収めていた木曽の板岩さんがそれを聞いて、自分の所に有った30年生の木を送ったのが初代の花の木だそうです。

  実際の花の木は、日本固有種で長野・岐阜・愛知・滋賀の4県のみに生育しているものだそうです。 

 桑原さんによると、近くに花の木のある公園もあるそうです。  

 ここの花の気はピンクの花をつけるそうです。

広い庭を一巡りして、再び白林荘に戻ってきました。 

  離れの近くに、孫文から贈られた鉢植えの木・白松の五葉松が植えられてありました。

   白林荘の出来る前は、ちょっと離れたところに、渡辺千秋大臣の分水荘が有ったが、

近くには宗伯爵が国から贈られた由良富士見高原荘・朝鮮別荘と

小川平吉大臣の帰去来荘があったぐらいだったそうですが、犬養氏は小川大臣とも親しかったそうで、

大正11年には帰去来荘に1ケ月ほど滞在したことがあったそうです。 

 翌大正12年には、白林荘の土地を購入、13年には白林荘が完成したそうです。 

桑原さんによると、冬の寒さは厳しいが、5/20日のツツジ、7/20日のヤマユリ、

10/20日の紅葉と見どころは多いそうです。

斉藤茂吉の歌碑。 

アララギ派の三歌人・島木・伊藤・斉藤はいずれも富士見には縁が深かったそうです。

茂吉は近くの原の茶屋で外遊の前に1ケ月ほど養生したこともあったそうで、

地元では歌碑を建てる話もあったそうですがなかなか実現していなかったそうです。 

  そこで、山縣氏が木堂翁の碑を造るにあたって、茂吉の歌碑も造りここに置いたものだそうです。

  歌は富士見にちなんだもので、茂吉の自筆の歌が見つかったので、それにしたそうです。

 (八千ぐさの 朝な夕なに咲きにほう ふじ美が原に われは来にけり)

ここで、今回の旅も終わりです。 

 桑原さん、いろいろとご案内いただきありがとうございました。 

 静かな林の中で、動乱期にかけた木堂翁の思いと、

古き良きものを残そうと心を砕いた、山縣氏の思いが感じられた一日となりました。 

 感謝・感謝です。

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