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碌山美術館:  

次に訪れたのは、研成義塾出身の東洋のロダンと呼ばれ日本の近代彫刻の道を開いた

萩原守衛・碌山の作品を中心に、碌山と関係の深い作家の作品も展示されている碌山美術館です。

  門をくぐると碌山の作品・労働者の像が我々を迎えてくれます。  

 碌山館は、碌山の没後の明治44年に、相馬黒光の開いた新宿・中村屋の裏に

アトリエを移築して作品を公開したのが始まりだそうですが、

昭和33年に30万人におよぶ多くの方の寄付と支援によって、

碌山の生地安曇野に美術館として開館したのだそうです。

教会を思わせる碌山館には、碌山の4年という短い彫刻作家生活の中で造られた彫刻全作品と資料が展示されていました。   

   

杜江館は一番新しく、平成20年に開館したのだそうで、

碌山の絵画や、戸張孤雁のスケツチ等が展示されていました。 

 碌山は最初は画家をめざしていたそうで、渡米したのも他の研成義塾の人達と違いシアトルではなく、

ニーヨークに渡ったのだそうです。   

パリに絵を学びに行っている時にロダンの彫刻・考える人に出会い、彫刻を志す様になったのだそうです。

第一展示棟は碌山に関連のある、高村光太郎等の作品が展示されており、

2番目に古く昭和57年に開館したそうです。

第2展示棟。  入口には、碌山の親友の彫刻家・戸張孤雁の言葉が刻まれていました。

午後からもあまり温度は上がらず、今日は寒い日になりました。 

 ストーブのあるグズベリーハウスに避難して暖をとります。                 

穂高神社:里宮

最後は、安曇野三社(仁科神明宮、若一王子神社)の一つ穂高神社を訪れました。 

  寒いので皆さん急ぎ足での見学となりました。 

  穂高神社は、飛鳥時代に大和朝廷の東征に合わせて、筑前国糟屋郡安曇郷(九州福岡市)の一族が、

航海術と稲作技術を持ってこの地渡ってきて、

海神族の祖神である穂高見神を河川の集まるこの地に祀ったのが始まりだそうです。

  山なのになんで海の神かちょっと疑問に思われますが、

水耕に欠かせぬ水の神で天から雨をもたらすと考えれば、

山の上に海の神を祀っても不思議ではないのかもしれません。

まだ新しい拝殿。     

 本殿は
20年に一度、1棟を造り変えるそうで、次は2029年だそうです。

社殿は、平安時代になって信濃中将が造営したのが始まりだそうで

名神大社に列せられ、旧国幣小社だそうです。 

 中殿には穂高見神を、左殿には親の海神・綿津見神、

右殿には農業神・瓊瓊杵神が祀られているそうです。 

江戸時代には梓川の上流、神垣内(神高地)明神池に、奥宮が造られ、

近代になって奥穂高山頂に嶺宮が造られたそうです。

若宮社には、安曇族で天智天皇の命により、百済の王子を助け百済に渡ったが、

翌年の白村江の戦で戦死した阿曇比羅夫と穂高神社を造営した信濃中将を祀ってあるそうです。

  穂高神社の例祭は、

曇比羅夫の命日の9/27日が里宮で、

その後10/8日が奥宮の祭りとなるそうです。 

 例祭に出る御船も、阿曇比羅夫の軍船だそうです。

神船・穂高丸、平安風木造船・奥社と里宮を結ぶ船として奉納。
 

御神馬・唐鞍をつけた木曽馬。

母親の犀龍とともに、岩山をくずし湖から水を抜いて安曇野を造りだした泉小太郎の像。 

  ものぐさ太郎といわれた、信濃中将のの碑。

仁王岩。

塩の道道祖神・千国街道沿いにあった道祖神を移築したものだそうです。

このあたりには、南北朝の始めに造られた神宮寺があり、

元禄二年に薬師堂と仁王門を新しく再建したそうです。 

 しかし数年の間に、本尊と仁王像は無くなり建物は空き家となり取り壊されてしまったそうです。 

 今は仁王像は行基作とされ、松本藩・水野家廟所の玄向寺にあるそうです。  

ちょっとよりみち:梓川サービスエリア

帰りには、穂高神社の見学で冷えた体を温めながらのお買いものということで、

梓川のサービスエリアに立ち寄りました。 

  御目当ての御土産を購入し、熱い御茶で一休み。  

 今日一日は、短い時間でしたが、古くから息づく安曇野の歴史を二つの神社で、

人はちょっと古くなったがいまだに新しくみやくみやくと続く安曇野魂、

そして新しく延びようとしている工芸家達の熱い思いを存分に感じられた一日でした。  

 最後に、マリオさんに戻り、熱いコーヒーで冷えた体を中から温めての解散となりました。     

   感謝、感謝。!!

 
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