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善光寺の御本尊は、飛鳥時代に仏教の伝来と共に、百済国からやってきた日本最古の仏像だそうで、

銅造りの仏像だそうです。  

仏像は、仏教派の蘇我氏が賜り、向原寺に祀られたそうですが、

神道派の物部氏の焼き打ちにあい難波の堀に捨てられてしまったそうです。  

信濃国司の従者として行った、本田善光さんがそれを見つけて、持ちかえり自分の家の臼の上に安置して、

座光寺としたのが始まりで、その年が602年というから古い話です。 

現在の本堂は江戸時代・寛政9年に建てられたものだそうです。 

 善光さんの住んでいた、この地は麻績の郷と云われていたそうで、

美麻村同様に麻の栽培でも行っており、百済か高麗の人も居り、仏教の事も良くわかっていたのかもしれません。

  仏像は後に、勅命により長野に遷座され、善光さんの名を取って善光寺とし、

座光寺には木彫の仏像が残され、その後寺名も元善光寺となったのだそうです。

まずは本堂でお参りして、宝物殿へと向かいます。   

 途中の廊下に、算額がかかっていました。

算額は江戸時代に和算で問題が解けた事を感謝し、勉学に励む事を祈念して奉納されたものだそうで、

全国で975面ほど見つかっているそうです。 

元善光寺には3枚あるそうで、これは地元の関流の門人達が奉納したものだそうです。  

右上の、内接円の絵は、算術の問題だそうです。 解けるかな。

古いお寺だけあって、宝物殿にはお宝が所せましと並んでいました。 

 御本尊の善光寺式阿弥陀三尊は有りませんでしたが、安置してあった座光の臼や、

木彫涅槃像、藤原時代の愛染明王、雪舟の寒山拾得図等々がありました。  

中には、岡谷の宋平寺跡を訪れた時に触ってみた、板碑も展示されていました。 

 御本尊の阿弥陀三尊は、出口の脇に写しがありましたが、一枚の舟形光背の前に、

阿弥陀如来を中央に、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩を配した、一光三尊の仏様だそうです。 

最後に戒壇めぐりで御利益を頂き、元善光寺を跡にします。 

 境内の紅枝垂れ桜の古木は大分赤みをおびてきましたが、開花にはもう少しかかりそうです。

弓道場の脇をぬけて次の目的地、竹田扇之助記念国際糸操り人形館へと向かいます。 

 麻績神社へと向かう道の脇には、除夜の竹宵に使われた竹が残っており

(桜、七夕等年に4回ほど火が灯されるそうです)蝋燭の明かりで見るのもなかなかのものかと思われます。   

竹田扇之助記念国際糸操り人形館:

エントランスホールでは、今は館長をしておられる扇之助氏が我々を迎えてくださいました。 

 お年は80を超えておられるそうですが、まだまだかくしゃくとして居られました。 

隣の展示ホールには、東京の竹の塚にあった竹田人形座の舞台を再現した立派な舞台がありました。

  その前で、館長のお小僧さんの見事な操りに感嘆し、ビデオで竹田人形の勉強をしました。 

 人形は神事として、巫女が舞わしたものは古くからあったそうですが、

芸能として江戸時代に生まれた糸操りは、江戸・結城座を中心として発展したものと、

大阪へ独立した竹田人形があるそうです。 

 竹田人形は一時はすたれそうですが、昭和30年に竹田三之助氏が竹田人形座を東京に復興、

その後現館長の扇之助氏と人形師の喜之助氏を得て、古典から、NHKTV(宝島・黒姫物語等)

、映画(明治はるあき・つる等)と広がり、国際的地位をきずいて来たそうです。  

ビデオの学習の後は、舞台の上、下を案内していただき人形芝居のやり方を教えていただきました。

展示ホールの向こうには、竹田錬場がありました。  

 扇之助氏が、故郷に戻られてから、この地に伝承と創造の場として造られたものだそうですが、

すべての人形・資料とともに飯田市に寄贈されたものだそうです。

市では、人形劇の町飯田の拠点とし、扇之助氏の功績を記念して、この記念館を造ったのだそうです。

旧座光寺麻績学校校舎:県宝
麻績学校校舎と舞台桜。

形館の手前に、立派な梁を持つ麻績学校校舎がありました。 

 さらに手前には、樹齢400年近い舞台桜がありました。

 まだ蕾でしたが、半八重紅彼岸枝垂れ桜だそうです。 

 校舎は、明治6年に歌舞伎舞台と学校を兼用して造られたものだそうで、

学校建物としては県下で最古のものだそうです。 

 学校としては、昭和59年まで111年間使われたそうで、会員の中にもここの卒業生が居られました。

正面一階は歌舞伎舞台だったそうで、左右に太夫座があり、舞台中央にはせり上がりの穴も残っていました。 

農村歌舞伎舞台としては、県下最大級のものだそうです。 

もともと、ここ座光寺では、狂言も盛んだったそうで、それで幕府批判もやっていたとか。 

  二階の教室へは、太夫座の向かいの階段から上ります。

舞台裏は、一階が土間で、二階、三階は畳敷きだったそうで、二階には江戸末期からの教科書、

教育勅語の軸等が展示されていました。  

三階は校長室だったそうです。

麻績神社:  

島三社。

正面の社には、麻績諏訪社と麻績八幡宮の二つの柱が祀られていました。  

一段上がった所には七柱の社が見えました。

 麻績神社と呼ばれるのは明治に入ってからで、以前は大宮諏訪社・八幡宮とも呼ばれ、

伊那郡衙の社だったそうです。 

座光寺氏の南城の出入り口にもなっていたそうです。 

   
   
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