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ちほく高原鉄道初乗車(後編) 第1回

ちほく高原鉄道とは?

(05年10月の旅)

北見駅駅名板

北見−置戸

  翌日も早朝の目覚めであった。この日は、朝いちばんの列車で池田方面へと戻っていく。ちほく高原鉄道との惜別の一日ということになる。身支度を整えて、まだ夜が明けきらないうちにホテルを出発する。

 北見駅で始発列車に乗り込み座席を確保した。乗り込んだのは、待合室にいた10人ほどの人たちで、早朝の始発にしてはかなり多い。だが、そのうち明らかに地元の住民と思われる人はたった一人で、あとはマニアもしくは旅行者である。それでも、こうして乗客がいるというのはありがたいことだろう。たぶん、数年前のまだ廃線が具体的になってないころなら、乗客が私ひとりだけということも十分考えられた。

 北見駅を定刻どおりに出発した。この列車は置戸行で、折り返し北見に戻ってくる。置戸発の通勤通学列車になるため、回送列車的な位置づけなのであろう。いくつかの小さな駅には停まらない。置戸では池田行の列車と4分の待ち合わせで連絡している。おそらく、そのパターンで陸別駅の駅員も北見から通っているのではなかろうか。

 北見を出てからしばらくは、北見の市街地を走っていく。市街地といっても、住宅密集地はすぐになくなり、畑と住宅が点在するような場所に変わっていく。やがて、北光社という小さな駅をあっという間に通過。名前の由来を知りたいような駅名であるが、こうした市街地郊外にある平凡な駅は、廃線とともに跡形もなく消えてしまう運命にあるのだろう。

 上常呂駅に到着。常呂(ところ)という地名は北海道独特で、あちこちで聞くことができる。ここは駅舎が非常に立派で、おそらくコミュニティー施設を兼ねているのだろう。駅に「和司くん、亜希さん、御結婚おめでとう」という張り紙があった。駅舎がセレモニーホールになっているのかとも思ったが、旅行後に偶然新聞でちほく鉄道沿線の若いカップルが、貸切列車で結婚披露宴を行ったという記事を読んだ。鉄道存続運動が縁とのことであるが、廃線間もない列車での披露宴ということで本人たちも出席者も心中複雑なものがあるのかもしれない。

 次の日ノ出駅もなかなか立派な駅舎を持っている。やはり、駅というのが地域コミュニティーの中心的存在であることを物語っている。沿線自治体は、なんとかしてちほく高原鉄道を活性化させようと努力してきた姿もうかがえる。この駅なども、廃線後も鉄道記念公園として十分利用価値がありそうだ。続く穂波駅は、逆にホームだけの簡素な駅である。こちらは廃線とともに駅も姿を消してしまうかもしれない。

 北見の盆地を走っているせいか、車窓は開けた感じがする。畑地帯が広がっていて、北見の特産であるたまねぎを生産しているようすもうかがえる。訓子府駅を過ぎると、さらに畑地帯は広がりを見せ、十勝平野にはおよばないものの、農業生産がこの地方の根幹をなしているようすもわかる。そんな畑地帯のなかに、小さな駅がぽつぽつと存在する。西富、西訓子府と、列車はスピードを上げながらあっという間に通過する。

 だんだんと山が近づいていくような感じのなかで、境野駅に到着する。実は昨日、置戸駅から乗り込んだ小学生がこの駅で下車したのを見ている。駅舎は他の駅と違って、プレハブ小屋のようなみすぼらしい感じではあるが、ローカル線の駅舎らしい味わいを感じた。本当は、駅舎と子供たちを撮影してかったのだが、周辺が暗くなっていたため断念していた。時間があれば途中下車してみたくなるような、ちょっと雰囲気を持った駅でもある。

 境野を過ぎるとさらに山は近づく。ただ、全体に低い山なみなので、山間部という感じはしない。周囲になんにもない豊住駅を通過し、いよいよ終点の置戸である。この駅の駅舎もなかなか立派で、反対車線にはすでに池田行の列車が到着していた。私を含め、旅行者たちはほぼ全員がこの池田行に乗り換える。今乗ってきた列車は折り返し運転をするが、車内には地元のおじさんが一人座っているだけであった。

置戸駅での列車交換

(つづく)
置戸から峠を越えていきます