エフェソス美術館のパルティア記念碑

画像と引用文

これは戦闘服に身をつつむ皇帝である。彼は戦争の神マルスのようなポーズをとっている。彼のうしろにローマの雌狼とロムルスとレムスが見える。下におかれている頭は、河の神すなわち、(リキウス・ウェルスの戦役中重要であった)ユーフラテス河あるいは(ロムルスとレムスと関係のある)テベレ川であろう。

・・・・かつてマルクス帝時代だが、ローマ軍将領たちが、遠くこのクテシフォン、セレウキアまで侵攻したことがある(164)。ギリシャ植民地セレウキアは、友軍としてこれを迎えたが、他方パルティア王の本拠クテシフォンは、たちまち敵と見なされて攻撃を受けた。しかも運命は、両都市ともに同じだった。まずセレウキアは焼討ち掠奪を受け、30万の住民はすべて殺された。栄あるローマ軍の戦勝を汚す一大汚点だったが、そうでなくとも、すぐ隣接する強敵の攻撃で疲弊し果てていたセレウキアは、この一撃で完全に滅んだ。が、他方クテシフォンの方は、その後30年ばかりもすると立派に国力を回復し、セウェルス帝による執拗な攻囲にも、あくまで抵抗を続けた。だが、結局はこれも強襲を受けて攻略され、みずから陣頭に立って防戦した王は、危うく身をもって逃れる始末(198)。十万人の捕虜と夥しい戦利品、これが困憊し果てたローマ兵に酬いられた戦果だった。・・・・

画像Verwundete Amazone(傷ついたアマゾン)紀元後2世紀半ば

説明アルテミシオンの祭壇にあったアマゾン

二度目のアルテミス神殿は建てられたのが紀元前6世紀であるが、これは世界の七不思議の一つとされた。紀元前4世紀に焼け落ちたあと、
(三度目の神殿が)再建されたのだが、アルテミスの神聖祭壇は壮麗な囲壁で囲まれていた。傷ついたアマゾン像の上半身彫刻はこの(三度目の神殿の)壁にあったものである。

説明文引用

戦闘場面である。中央右側では、ローマ人の将軍が命令を下しており、中央左ローマの兵士がひとりのパルティア人を殺している。指揮官は多分皇帝ではないだろう、というのも皇帝は二輪馬車に乗っているからだ。彼は多分、ガイウス・アウィディウス・カッシウスであろう。彼は、165年にパルティアの首都クテシフォンを略奪したが、のちに不名誉を被った。このレリーフでは、誰か知らないが怒ったエフェソスの住民が記念碑を襲ったときに首をもぎ取ったものであろう。一番左にいるのは河の神である。

説明文引用

このレリーフが多分パルティア記念碑の中央に置かれていたのであろう。

養子縁組である。ハドリアヌス皇帝(117-138)には後継の息子がいなかった。そこでアントニヌス・ピウスを養子にした。ところが彼にも子がいなかったので、マルクス・アウレリウスとリキウス・ウェルスを養子にするように命令された。このレリーフにはこれが示されている。左から右へ順番に:マルクス、ハドリアヌス、リキウス、ピウス、それからひとりの生贄である。

  詳しくは、ギボン『ローマ帝国衰亡史』Ⅰ、中野好夫訳 筑摩書房 1976 P225-2448章を読むことをお勧めする。

 では、なぜウイーンにパルティア記念碑があるのか。

Wikipediaの講釈(翻訳)によって説明すると、

 以上、ご苦労様でした。

 では皆様、ご機嫌よう。

画像と引用文

この記念碑には征服されたメソポタミアの諸都市の彫像が含まれている。これはハッラーン(Harran)、別名カルラエ(Carrhae)(古代シリア地方の北部にあった都市)である。この都市は、罪の寺院と月の神で有名であり、旗にはそれらが示されている。ローマ人の一人としてこれを見て喜ばなかったものはいないだろう。なんとなれば、(シリアの)ハッラーンは(ポンペイウス、ジュリアス・シーザーとともに)三執政の一人であったローマの指揮官マルクス・リキニウス・クラッスス(ca. 115 BCE – 53 BCE)が不名誉にも(パルティアの将軍スレーナによって)敗北した場所であるからだ。リキウス・ウェルスが勝利したので、クラッススの死は最終的に仇討ちされたことになるからだ。

説明文引用

戦場へ二輪馬車に乗って移動する皇帝。ローマ人は戦争に二輪馬車は使わなかった。しかし、これは神話的表現なのだ。右側の半裸身の女性は女神ローマであり、翼のある女性は(勝利の女神)ヴィクトリアである。皇帝、二輪馬車、ローマと勝利の女神の組合わせはローマのタイタス皇帝凱旋門にも見られる。

 以下、パルティア記念碑彫刻のいくつかを説明すると、

 オーストリア考古学会は1895年以来、二回の世界大戦の時だけを除いて、この都市を調査してきた。この美術館の蒐集がはじまったのは、トルコ王のアブドル・ハミッド二世がオーストリアのフランツ・ヨーゼフ一世に考古学発掘品のいくらかを寄付したことに始まるのである。1896年から1906年まで合計七回の探検隊が発掘品をエフェソスからウイーンに持ち帰った。その後、トルコの法律改正があり、1907年以降は文化遺産がウイーンに送られることはなくなった。

ローマとパルティアとの戦いは勝ったり負けたりで決着がつかなかったが、そのうちにパルティアは内乱状態に陥り瓦解した。このあとを継いだのが、アルダシール1によって創始されたサーサーン朝ペルシャである。297年、ローマの副帝ガレリウスはドナウ地方分権隊を呼び寄せ、係争地であったアルメニアの山中で、ナルセ軍に対し奇襲作戦を敢行して大勝した。こうしてローマとペルシャの闘いに最終的決着がつき、ガレリウス凱旋門がテッサロニキに造られた。

画像:アフラマズダー神から王権の象徴を授受されるアルダシール1世のレリーフ

画像:西暦前200年、
パルティアを黄色で、セレウコス帝国を青色で、
ローマ共和国を紫色で示す。

パルティア記念碑というのはローマ皇帝リキウス・ウェルスのパルティア戦役(161-165 AD)を記念するもので、もともとはケルサス図書館の近くにあったが、西暦262年の地震で崩落し、図書館前の泉水の構築材料となっていた。長さが70mあって、その内40mだけがエフェソス美術館に展覧されている。ケルサスの図書館も西暦262年の地震で破壊された。

 こういう次第ですが、しばらく展示品を鑑賞することにしましょう。

Inv. No. ANSA_I_867
画像Apotheose des Lucius Verus(神格化されたリキウス・ウェルス)
紀元169

Inv. No. ANSA_I_862
画像Artemis Seleneアルテミス・セレネ(月の女神)
紀元後2世紀

Inv. No. ANSA_I_866
画像Schlachtenszene, Schwertkämpfer戦闘場面、剣闘士
紀元後2世紀半ば

Inv. No. ANSA_I_861
画像Götterversammlung: Demeter神々の集い:デメテル(古代神話で結婚の守護神で豊饒の女神)
紀元後2世紀半ば

Inv. No. ANSA_I_864
画像Adoption der Kaiser Lucius Verus und Marc Aurel
紀元後2世紀半ば

パルティア人は紀元前53年のカルラエ(Carrhae)の戦いでマルクス・リキニウス・クラッススに完勝し、紀元前40-39年パルティア軍はローマからティール(レバノンの)を除くレバント 地中海東部およびその沿岸諸国》の総てを奪った。しかし、マルクス・アントニウスがパルティアに反撃を加え、ローマ・パルティア戦争では幾人ものローマ皇帝がメソポタミアに侵入した。これらの戦闘の間、ローマ軍はセレウキアの諸都市とクテシフォンをいくどとなく奪ったが、これらを手元にとどめることはできなかった。王座を目指すパルティア人同志の間での内乱がしばしば生じて、これが外国勢の侵入よりももっと危険であった。そして、西暦224年に、ファルス州のエスタキールの支配者であったアルダシール一世がアルサケス朝に対して反乱を起こし、彼らの最後の王であったアルバヌス四世を殺害したとき、パルティアの権力は蒸発してしまった。アルダシールはサーサーン朝を創始した。このサーサーン朝が7世紀にモスレム征服にいたるまでイランと近東の大部分を支配したのである。もっともアルサケス王朝はアルメニアのアルサケス王朝として生き存えたのであるが。

引用の翻訳:

パルティア人達のもっとも初期の敵は、西のセレウコス朝(アレクサンドロス大王のディアドコイ(後継者)の一人、セレウコス1世ニカトルがオリエント地方に築いた王国)で東はスキタイだった。しかし、パルティアが西方に拡張するにつれ、彼らはアルメニア王国と衝突が始まり、時とともにのちのローマ帝国と衝突した。ローマとパルティアはお互いに競争をつづけてアルメニア王国をかれらの従属国として成立させた。

画像:西暦一年頃のパルティア帝国領域(影を付けた部分)

画像:エフェソス美術館に展覧されているパルティア記念碑

では、パルティアとはなにか。