写真:街角のカフェ。道にも塵ひとつありません。
テ ッ サ ロ ニ キ
2011/05/16
写真:アゴラ
これがギリシャ風のハンバーガーで長パンの間にハム、チーズ、野菜をはさみ、熱く焼けた鉄板の間にはさみ、加熱圧縮して出来上がり。厚さ約1cm。ほかほかとしていて美味。かつ、薄いので食べやすい。カフェがまた清潔で気持ちがよい。
では皆様、ご機嫌よう。
写真:聖ディミトリオス教会正面入口
3. キリスト教時代
ガレリウス帝のあとにローマ皇帝となったコンスタンティヌス帝(在位306〜337)がミラノ勅令を公布してキリスト教を公認し、都をコンスタンチノープルに移した。
ガレリウスの時代に殉教したローマ軍の軍人ディミトリオスの名前をとった聖ディミトリオス教会が5世紀に建設され、地震、火災を経て、20世紀に再建された聖堂が現在に残る。
写真:「子供を連れた聖ディミトリオス」。
祭壇に向って左側の柱に残るのは、7世紀に教会再建時に作られたイコン。いくたびもの偶像破壊運動をくぐり抜けて無事現在まで生き残ったのは、テッサロニキの市民の努力によるもの。7世紀の絵画が現在に残っている例は希有。それにしても、美しいイコンですね。第一級の芸術品です。
写真:聖ディミトリオス教会内部
このとき、ナルセ王の家族、後宮、ならびに膨大な財宝を入手した。ガレリウスは有利な戦況を推し進めて首都クテシフォン(現在のバグダッド)も占領した。298年にナルセは降伏したため、メソポタミアはローマの支配下に戻り、さらにチグリス川の東の一部地域までもローマの支配下に置かれた。ローマ帝国が東に版図を最も広げたのはこのときである。
アレクサンドロス大王によるイッソスの戦い(333 BC)に比せられる快挙だった。
サタラでのペルシャ軍との戦闘の模様を彫刻したのが、ガレリウス門に残るこのレリーフである。
写真:街中に突然現われるガレリウス門。
ガレリウスはササーン朝ペルシャのナルセ王と戦い、295年メソポタミアで大敗した。ディオクレティアヌス帝の強い叱責にあい、297年、ガレリウスはドナウ地方分権隊を呼び寄せ、係争地であったアルメニアの山中で、ナルセ軍に対し奇襲作戦を敢行して大勝した(Battle of Satala)。
写真:ガレリウス門に残るペルシャ人との戦いの彫像。
2. ローマ時代
168 BCのピドナの戦いで、マケドニア軍はローマ軍に敗れ、マケドニア王国は凋落し、ローマ帝国が支配権を握った。街の山手にあるローマのアゴラがそれ。
1. マケドニア時代
マケドニア時代の遺跡はなにも残ってはいません。アレクサンドロス時代は35km西方のペラが首都だったからなのですが、ではなにもないかというと、そうでもありません。テッサロニキ近郊のデルベニ、レテ、セデスなどからマケドニア時代の主として金製品の遺物が掘り出されているのです。
(→テッサロニキ考古学博物館)
悠然と魚釣りをする人もいて、釣れるか釣れないか知らないが、雰囲気が素敵です。
朝5時に散歩に出ても、街のカフェはこの通り店開きしています。
テッサロニキ
人口100万人のギリシャ第二の街なのですが、なんという素敵な街でしょう。洗練されたセンスが光ります。まるでパリのようなシックさ。いや、パリよりも垢抜けしている。
時代が450年ほどさがり、テッサロニキは当時の皇帝ガレリウスの居城となった。(現在はセルビアにあるシルミウムがガレリウスの首都だったが、現実にはテッサロニキで執務していたらしい)。そこで、ガレリウス凱旋門が建設され、ガレリウスの霊廟が「ロトンダ」として残っている。
でも、歴史が重層構造になっていて、街のなかに点在する遺跡を見て歩いても、一見しただけでは遺跡の意味合いが分かりません。
時代順に説明すると、
港にはホワイト・タワー。15世紀にベネチア人が造ったもの。
写真:ガレリウス凱旋門
写真:円形劇場
写真:早朝のテッサロニキ市内
画像:”The Gold of Macedon” Archeological Musum of Tessaloniki, 2010
テッサロニキの北西10kmにあるデルベニの墓Δから発掘された金製のリース。
紀元前4世紀後半。