それにひきかえ、私たちの心に生じる神秘体験は根源的である、
私たちの「意識」とか「考え」の奥底に潜む方向性を明確に示して
くれる特性をもつ、と彼らは主張する。

 しかり、アウグスティヌスは中世の暗黒時代を通じて、悩める人、
苦痛にうちひしがれた人、死におびえる人、に励ましと慰藉の言葉
を与えつづけた。ルターは逆に、奢り高ぶる人たち、あるいはその
ような心の傾向をもつと自覚する人たちに対し、高慢になるな、あ
なたを待ち構えているのは、峻厳で苛酷な死神だけである、と自戒
の戒律をあたえた。

 日本でも戦中戦後の混乱期で、人の心の方向性が定まらぬとき、
アウグスティヌスのタイプである谷口雅春や西田幾多郎は、生命の
根源性と善の絶対性を説いて人を励ました。

 だから、神秘体験と筆者が名づける精神上の挙動には、他の超常
現象とはことなり、人を導く指導力があるように見える。

 だが、この考えははたして正しいのであろうか。

 ジェシーの立場に立ってみよう。

 彼は、人間の心には過去を遡って、自分
の生まれる前の記憶まで手繰る能力がある、
と信じた。自分の心に生じた現象であるか
ら、これを信じないわけにはいかない。こ
れを否定することは決してできない。しか
し一方で、他人がこの彼の経験を信用して
くれることはまずないであろうと考えてい
る。

 あたかも父親の死去のさいに、心霊によ
る死亡の速達便を受けとった人が、自分の
経験をいくら他人に説明しても、それを事
実だと承認してもらえない事態に似ている。
他人から下される判定は、たとえ非常に好
意的な場合でも、「多分それは事実だろう
が、私は同じ経験をしたことがないから信
じることはできない」ということになろう。

 気功の術もこれに似ている。気功術で肩
の神経の一本一本に霊の力で「触られた」
人は、たしかに私は触られたという事実を
知っている。だが、気功術を経験したこと
のない人は、それは多分「気の迷い」だと
判定するのがオチである。

 臨死体験の場合は、事態がより深刻であ
る。この体験をした人はほとんどが実際に
死んでしまう。魂と肉体が同時になくなっ
てしまうのである。このときの心に生じる
現象は、本人が死ぬ間際に他人によって行
なわれた聞き取り調査に頼るか、あるいは
たまにしか生じないが、死の淵から生還を
果たした人の報告書に頼らざるをえない。


 われわれはまたしても、「きっとそうな
のであろう、だが、私はその経験を味わっ
たことがないから、信用するわけにはいか
ない」と正直に感想を述べて、全面的な同
意を回避するにちがいない。

 つまり、これらの場合の追認とは、同じ精神的経験を味わっ
た人だけが認証することのできる権利であるが、万人に普遍的
な同意を求める権利には欠けている。


 ではジェシーの体験を本書の主題である神秘体験と神秘体験
Bとに比較するとどうであろうか。

 ジェシーの溯行貫通超越体験と神秘体験Aならびに神秘体験B
はいずれも、精神が非常に緊密に凝縮された状態で発生する、
突発的な、心的な、超常現象であることが共通しているように
思われる。またいずれも、体験者でなければ追認できない特徴
をも兼ね備えている。それらはいずれも「ありうることだと想
定はできるが、絶対の信任はできない」認識であることも共通
している。

 したがって、私たちはジェシーの述べ、レインによって書き
とめられたこの溯行貫通超越体験を、これまた超常現象と客観
的に認定しておくこととしよう。

 このような雑駁なくくりかたをして、神秘体験Aや神秘体験
Bを超常現象のなかに数える粗雑さを、深遠で高邁な思想を取
り扱う哲学者や思想家は、「哲学の真髄を心霊家の念力と取り
違えている」と非難することであろう。

 たしかに「気」や「臨死体験」や「溯行貫通超越体験」とい
う私たちの心に生じる超常現象は、その内容に価値観をふくん
ではいない。価値観を含んではいないから、「心霊による死亡
の速達便」があろうとなかろうと、「気功師が私の神経に念力
で触れ」ようが触れまいが、「死に際に光や色に満ちあふれた
花園を見」ようが見まいが、「原初の無機物状態に遡行し」よ
うがしまいが、私たちの物事の考え方に決定的な判断を下さな
いし、動機付けをも与えない。その現象があってもなくてもど
ちらでもよいのである。暇人で好奇心にあふれる人たちだけが、
自分も経験したい、と思うのであろうが、
99%の人はこのよう
な超常現象には興味をもたない。つまり、それがなくても暮ら
せるのである。

画題:エドワード・バーン=ジョーンズ
   『武装するペルセウス』1877
    グアッシュ・紙
    サザンプトン市立美術館
         『ラファエル前派』The Pre-Raphaelites
      アンドレア・ローズ
      谷田博幸訳
          西村書店 1994

ペルセウスはダナエがゼウスと交って生まれた子
である。

ダナエの父であったアルゴスの王アクリシオスは、
神託によっていつの日か孫の手で殺されるだろうと
いう警告を受けた。

そのためかれは男たちを寄せつけまいと娘のダナエ
を青銅の塔の中に幽閉したが、ゼウスはまんまとか
の女を誘惑した。

ペルセウスが生まれた後、ダナエは父によって赤ん
坊とともに海へ放擲され、やがてセリーポス島に漂
着する。

ペルセウスはこの島で育ち、後に一目見ただけで人
を石に変えたというゴルゴーンの一人メドゥーサの
首を討ちとりに出かけることになる。

この絵の場面は、ペルセウスがゴルゴーンたちから
身を守るための武具を手に入れるために海の精の洞
穴にたどり着いたところである。海の精は、姿を見
えなくするヘルメット、ヘルメスの翼のついたサン
ダル、メドゥーサの首を入れる袋を差し出している。

                                     (谷田博幸)