こうした推量を重ねることにより、精神科医であるR.D.レインは、
ジェシーが社会通念上は精神分裂症であると断定されることに疑問を
呈する。この症状は精神分裂病という精神病の一形態に属しており、
クロールプロマジン何ミリグラムを投与することが症状緩和のための
最上策である、と見做す英国精神科医の常識に反抗する。
このケースは精神分裂病と見なされるべきではない、ジェシーは正
常なのである、ジェシーの経験は人間のもつ精神的な可能性のひとつ
を経験したにすぎない、と主張するのである。
ジェシー・ワトキンズがこのような体験をした理由として、
人はこの体験に対し、様々なもっともらしい「きっかけ」を
推量することができる。
彼が「全く新しい環境の中に移動し」て、新しい環境を理
解する緊急の必要性に迫られていたことがこの「もっともら
しい」理由のひとつである。その結果、彼は「疲れ切って」
いた。このように人間が肉体的、精神的に過剰の負荷の状態
にあるときには異常反応が生じるものである。
たとえば1アンペアの容量しかない細い電線に10アンペア
の電流を流すとき、電線は発熱して結局は焼き切れてしまう
だろう。すなわち、精神に対するオーバーロードがその原因
だとも考えられよう。
対策は簡単である。原因となったオーバーロードを取り去
ってやればよい。すなわち、静養すれば、(時間はかかるが)、
精神は焼き切れないで原状に回復する。実際、彼は精神病院
に収容され、静養する時間をもつことができた。彼の精神は
3ヶ月の入院生活で正常な社会生活を送れる程度に回復したの
である。
もうひとつの「きっかけ」は、「生まれて初めての麻
酔剤」であると臨床医はカルテに書き込むかもしれない。
たとえば、それは微量のエタノールが飲酒経験のない
幼児に与える甚大な影響に似ている。通常の人間にとっ
て注射しても精神的に害を与えないことが立証されてい
るからこそ、医者は安心して麻酔剤を与えたのであるが、
不幸にも彼の神経は、(なにしろ初めての経験であった
から)、麻酔剤のもつ神経麻痺作用に耐えきれなかった
のかもしれない。
これももっともらしい原因の一つになりえよう。
あるいは、この二つの「もっともらしい理由」の混合
状態が本当の原因であると断定する臨床医がいるかもし
れない。
だが、実のところ、真の原因は「わからない」のであ
る。
一時的な「狂気」が彼を襲った、と文学者は表現する
かもしれない。だが、実際には、彼には「狂気」は存在
していなかった。彼は自らの陥った状況を冷静に観察す
る理性を保持していた。
「こういった感じはすべて、きわめて鋭いもので――
ええと――現実感があって、そして、同時に私は――私
は――私にはそのことが意識されていたのです。おわか
りでしょうが、私はまだはっきりとそれを憶えています。
つまり私は、こういったことが自分の身の上にふりかか
っているといった意識があったのです」。
というジェシーの言葉がなによりも彼の正常な理性を物
語っていよう。
画題:Henri Rousseau (1844-1910)
“Charmeuse de Serpents”
(蛇使い)1907
La
Galerie du Jeu de Paume, Paris
『現代世界美術全集10 ルドン/ルソー』
集英社 1971