なにがなにやら一読しただけでは全くわからない。『純粋理性批判』のすべてを読んでみても、肝心の「理性」の定義が箇所によってころころ変わり、なにをもって検討対象の「理性」としているのかさっぱり要領をえない。あまりにもわからぬので、『カント事典』という大部の解説書も販売されているのだが、それを読んでみても論理の辻褄合わせに失敗してしまう。


 そこで筆者は考えたすえ、同書のなかから特に
384を肝心かなめをおさえているポイントとして抽出してきたのだが、ここでカントは次のように言っているのである。


 純粋理性というものは、先験的に与えられている、つまり後天的に得たのではなく生まれながらに備わっている理性なのである。そもそもわれわれが経験と称するものは、すべて生まれた後に後天的に受け止めた感性であるが、その後天的な経験のすべてを包括しているのが、先天的に与えられている純粋理性なのであり、この純粋理性こそ包括的な絶対性を持つのであり、これが自然の摂理というものである。われわれが悟性と考えているものも、この純粋理性の働きにほかならない。この純粋理性は、だから、一切につき超越的であり、経験の限界を超出している。

『純 粋 理 性 批 判』

(カント『純粋理性批判』
       篠田英雄訳、岩波文庫)

 (注:下線部分は、
        原文では、
        強調ルビになっている)

  1724年東プロシャのケーニヒスベルクに生まれ、永年ケーニヒ
スベルク大学にいたイマヌエル・カントは
1781年、彼が57歳のときに『純粋理性批判』という本を著した。

 とても読みづらい本であり、当時の科学知識のレベルと哲学概念と神学の内容をすべて熟知していないと理解できない難点があるのだが、この本のコアだけを抜き出して拝借させてもらうこととしよう。

 純粋理性概念は先験的理念である。先験的理念は、純粋理性の概念である。この理念は一切の経験的認識を、条件の絶対的全体性によって規定されているものと見なすからである。とはいえ先験的理念は、任意に考案された拵えものではなくて、理性そのものの自然的本性によって我々に課せられたものであり、従ってまた悟性使用の全体に必然的に関係する。要するに先験的理念は超越的であって一切の経験の限界を超出する。(384)

 理性は、定言的理性推理に用いるのとまったく同じ機能を綜合的に使用するだけで、思惟する主観の絶対的統一という概念に必然的に到達する、――また仮言的理性推理における論理的手続は、与えられた条件の系列における絶対的無条件者という理念を必然的に生ぜしめる、――最後に、選言的理性推理の単なる形式は、一切の存在者中の存在者という最高の理性概念を必然的に生ぜしめる、ということである。(392,393)

画題:藤島武二(1867-1943)
   『黒扇』1908-09
   カンヴァス 油彩
   ブリジストン美術館
      『現代日本美術全集7 
              青木繁
/藤島武二』
      集英社 1973

   白いヴェールと、
      頭髪や手にもつ扇の黒
      の対照が鮮やかに美しい。

     明治時代の人たちは、
     藤島が描く『黒扇』のような
     明晰な現実解釈を
     カントの『純粋理性批判』のなかに
     見つけ出せると感じた。
     カントは、
           難解だが「ロマンチック」、
     その当時の用語で
     「浪漫的」、だったのだ。