古い見慣れたものが、新しく異様なものに見えるのです。初めて見
た、という感じも再三おこります。古い座標軸は失われてしまうので
す。私たちは時間を遡ります。私たちは世界で最も原始の旅に出かけ
るのです。


 「妻はとても――うーん――心配しました。妻は部屋へ入って来て、
私に腰をかけろと言ったり、ベッドに寝ろと言ったりしました。そし
て彼女はびっくりしたので、隣家の男を連れてきました。この男は公
務員でしたが、やっぱり少々驚いて、私をおちつかせようとしました。
私は相変らず彼の方にむかって歩いていきましたが、医者が来て――
えーと――私はそこで、時間が逆転しているといったそのときの感じ
をいろいろ話してきかせました。もちろん、私にとってはその言葉は
完全に合理的なものなのでした。私は過去にもどりつつあったわけで
すし、自分では漠然とですが一種の過去の存在に還りつつあるという
感じでした。ところが連中は私が狂人にでもなったというような顔を
して私をあからさまに見つめるのです。私にはよくわかりましたが―
―彼らの顔にうかんだ表情が私にはよくわかりましたし、連中は私が
完全におかしくなっていると思っていることが明らかな以上、連中に
何を言っても意味がないとも思いました。事実私はおかしかったので
しょうけれどね。そして――えーと――それから次には、救急車がや
ってきて私は連れて行かれてしまいました
……」。


 彼は観察病棟に収容されたのです。
                      
     (同上)

ジェシー・ワトキンズの報告(2)

  旅


 「
……急に私は時計を見ました。ラジオは鳴っ
ていて、音楽が聞こえていましたっけ――えーと
――そうですね、ちょっとした通俗的なやつでし
た。それが電車のリズムを使ったようなやつでね。
タータタ、ターター
……ラヴェルのくり返しが多
い音楽に似ていました。それから例のことが起っ
たとき、私は突然、時間が逆戻りしていくような
感じをもったのです。私は、この時間が逆戻りし
ていくような感じでした、それは実に異様な感じ
で――そのう――それが、私がそのとき感じた最
大の感じで、時間が逆もどりするというのです

」。


 「その感じがとっても強かったので、私は時計
を見てみました。すると、針は動いてこそいませ
んでしたが、私はどういうわけか、時計を見ると、
時間が逆戻りするという私の感じを時計がいっそ
う強めるのです――突然、自分が一種のベルトコ
ンベヤーに乗ってどこかへ動いていくような感じ
がして、びっくりしました――しかも、そのこと
については自分ではどうしようもないのです。ま
るで自分がすーっと滑って落ちていくようで――
言ってみれば坂を滑っている感じですね――ええ
――それで自分でも止まらないのです。そして―
―うーん――これで私はちょっとした恐慌を感じ
ました――今でも覚えていますが、自分がどこに
いるのかを確かめるため、自分の顔を見るために
別の部屋に行ったのですが、その部屋には鏡がな
かったのです。私はまた別の部屋に入って、自分
の顔を鏡に写してみました。すると自分自身が何
か異様なものに見えたのです。私が見ている自分
はまるで別人で、それは――よく知っている男で
はあるけれども――そのう――実に異様で自分と
は全く違った男に思えました――私の感じでは、
です――そして次に、私は自分自身に対してはど
んなことでもできるんだ、私は――自分のあらゆ
る能力を、身体もその他のすべてをも――自由に
支配できるのだといった異常な感じをもちました
――それで私はぶらぶら歩き始めたのです」。

画題:青木繁(1882-1911)
   『黄泉比良坂』1903
   紙 色鉛筆 水彩
   東京芸術大学芸術資料館
         『現代日本美術全集7 
              青木繁
/藤島武二』
         集英社1973

     イザナギの命が黄泉国(よみの
      くに
)に行ったイザナミの命を訪
      ねていくが、その国の恐ろしさに
      逃げて帰る。
        すると、「吾に辱
(はじ)見せた
      まいつ」とばかり、イザナミは
      ヨモツコシ売
()や、八つの雷神
      や、千五百の黄泉軍に言いつけて、
      イザナギを追いかけさせる。
        ほうほうの態
(てい)で、黄泉比
      良坂から逃げていくイザナギの命。
                                (河北倫明

      青木繁は稀にしか出ない天才だった。
         彼は、青年期の鋭敏な感性をカンヴ
      ァス上に表現することができた。