十日間の旅

 

 ジェシー・ワトキンズは今や有名な彫刻家
であり、私は彼の友人であることを誇りとし
ております。

 氏は一八九九年十二月三十一日に生まれま
した。第一次大戦中一九一六年に不定期船の
乗組員として海員生活を始めました。氏の最
初の航海は北ロシアへのものでした。同年、
地中海で水雷攻撃をうけております。一九三
二年には横帆式帆船に乗組んでいました。

 第二次大戦終了時には(この間、氏はイギリス海軍軍人でした
が)沿岸護送艦隊司令官兼首席指揮官でした。海上生活を送って
いる間、氏は難船、反乱ならびに殺人といったものを体験してお
ります。

 氏は青年時代からスケッチや画を描き、海上生活の間中それを
中断したことはありませんでした。短期間陸の生活をしている間、
氏は時折り、ゴールドスミス大学成人学校やチェルシー絵画学校
に通いました。氏はまた著作の経験もあり、海洋についての短編
小説も発表しております。

 二十七年前、彼は、十日ほど続く「精神病的エピソード」を体
験しました。私は一九六四年、そのことに関する氏との議論をテ
ープにとったのですが、氏の許可を得てその抜粋をここに提供し
ようと思います。

 この資料は、別に注釈を要しないものです。それは内面的空間
と時間への氏の旅の記録です。その全般的特徴は並はずれたもの
ではありませんが、そういった特徴をかくも明晰に記憶している
ことは並はずれたことです。この事件は二十七年前のものではあ
りますが、氏の心中においてはそれは依然として鮮明であり、氏
の生涯で最も意味深い経験の一つになっているのです。

ジェシー・ワトキンズの報告(1)

 イギリス人の精神科医であるR.D.レインは、到底信じがたいが、ありうる人間の体験の例として、「溯行貫通超越」という意識現象を報告する。人間は人間の過去のすべてを、まるで人間の遺伝子に刻みつけられた記憶を巻き戻すかのように、いちいち手繰(たぐ)ることができる、つまり、アダムのような原初的人間の段階、いやそれをも超えた無機物の時代からの記憶をトレースできる能力があるのにちがいない、と主張する。


 すこし長くなるが、彼の報告を読んでみよう。

  先駆的体験

 ジェシーは「旅」が始まる前「全く新しい環境の中に移動しま
した」。彼は週七日、しかも夜おそくまで働いていました。身体
的にも、情緒的にも、精神的にも、彼は「疲れきって」いました。
ここで私たちに関心があるのは旅そのものですから、それ以前の
事情についてはこれ以上詳細にわたらないことにします。それか
ら彼は犬にかまれ、傷が治りませんでした。彼は病院に行き、生
まれて初めて普通の麻酔剤を与えられ、傷に繃帯をしてもらいま
した。

 彼はバスで帰宅し、椅子に坐りました。七歳になる息子が部屋
に入ってきましたが、ジェシーは息子が今までにない異様な具合
に、何か自分とくっついているような具合に見えたのです。

 それから、旅が始まったのでした。

      (R.D.レイン『経験の政治学』笠原嘉、塚本嘉寿共訳、
                                             みすず書房)

画題:ジョン・エヴァリット・ミレイ(1829-96)
   
  『マリアーナ』1851 
        油彩・板
   
  メイキンズ・コレクション
         
『ラファエル前派』The Pre-Raphaelites
         
アンドレア・ローズ
         
谷田博幸訳
         西村書店 1994


         テニスンの詩「マリアーナ」からの
         
次の詩句が添えられてあった。


         わずかにかの女は言った
         
「私の暮らしはみじめです――
         
あの人は来てくれません」と。
         
またかの女は言った
         
「もうほとほと疲れ果てました――
         
死んでしまいたい」と

          鋭敏な英国人の心情に余計な付言は必要あるまい。