漢都長安を出た旅人は、先ず西して今日の甘粛省に入り、
甘州・
肅州・敦煌等を経て、支那トルキスタン(新疆省)に
入る。そしてロブノール(Lobnor)の南に在った楼蘭・且末を
すぎ、南山山脈の北麓に沿うて、なほも西して干(Khotan)
を通過し、皮山(Guma)或は莎車(Yarkand)より、有名な葱嶺
(Pamir)に登り、山中の竭叉(Tashkurgan)に達する。こ
を出
でて更に南下し、ヒンヅークシュ山脈の北麓に至ると、道は
分かれて二つとなる。一は西方
(Oxus河)の上流ワカン
(Wakhan)の谿谷に降り、流に沿うて西北し、大月氏の都大夏
(Bactria、今のBalkh)に達する。一は南してこの山脈を越え、
難兜(Gilgit)に出て、これより南下し、途中二、三の峠を越
して、陀歴(Darel、今のDardistan)の谿谷に入り、この間所
謂縣度の険を越えて西南に下り、インダス河の流域に出で、
流に順って下り、カーブル河の流域に出で、乾陀羅(Gandhara)
の地に至るのであります。この道はたヾに漢代のみならず、
後世も
記録されてゐて、入竺求法の諸大徳は、いづれもこ
れを通過してゐるのです。法顕にしても、釋曇無竭にしても、
宋雲にしても、慧超にしても、皆さうであります。・・・・
  (『
西域史研究 上』白鳥庫吉 岩波書店 1941  P497

      注:釋曇無竭、法顕に影響されて永初元年(西暦420年)宋を
         出発。陸路でインド中部に到達。南インドより商船で広州
         に帰国。出発時25人、帰国時5人。

 白馬寺伝説が嘘八百だとすると、いったい仏教は
「何時」「どこから」中国に届いたのであろうか。


 この回答を白鳥博士は次のような背景を考慮し
て推定した。

1.           前漢7代皇帝である武帝(在位:前141~前87)
の命令で、月氏国へと派遣された張騫が開拓した
河西回廊と西域都護府という新しい漢帝国の領土
は、この時代を通じて、東西交流のルートとして
確保されていた。

2.           敦煌付近にいた月氏は匈奴に追われて、バク
トリア(現在のアフガニスタンの北方)に移住し
ていたが、紀元前後の時代にはまだ仏教に改宗し
ておらず、拝火教を信仰していた。

3.          (けいひん)、別名乾陀羅(ガンダーラ)
地方には塞種族(Saka)民族が占拠していた。

4.           西方諸国は中国の絹を熱望していたから、商人
による中国との交易ルートとして、次のルートが
確立されていた。

      (Gandhara) → 陀歴(Darel)
        
 縣度の険  → 難兜(Gilgit)
             →
 竭叉(Tashkurgan)莎車(Yarkand)/
        皮山(Guma) 
→ (Khotan)
        
 且末(Cherchen)  楼蘭(Lobnor)
        
 敦煌(Dunhuang) → 肅州(Suzhou)
             →
 甘州(Ganzhou)  → 長安(漢首都)

5.           白馬寺が建てられる少し前、楚王に封ぜられた
英という諸侯のひとりがあった。この英は明帝と
親戚関係にあった漢族なのだが、「英王が黄老の
学を好んで、浮屠を祀る」ということが正史に明
記されていること。

写真:
2007/09/20撮影
現在に残る旧道。このような道を
仏典が移動したのだろうか?

仏 教 の 伝 来 (2)

  さらになお、『中国仏教の寺と歴史』鎌田茂雄 
大法輪閣
1982  P124を参照せよ。

 文献に現われた仏教初伝の記録は『魏志(ぎし)』
巻三十に引用されている『魏略(ぎりゃく)』の説で
ある。


        
むかし、漢の哀帝の元寿元年(前二)、博士弟
    子景盧(けいろ)、大月氏王の使、伊存(いそん)
    の浮屠経(ふときょう)を口授するを受く。復立
    (ふくりゅう)と曰うは、其(そ)の人なり。


 この記事によると、漢の哀帝の元寿元年(前二)に、
大月氏王の使者伊存が博士弟子景盧に仏経を口授した
ことを伝えている。「復立」というのは他の文献では
「復豆」となっており、「復豆」が正しい。復豆とは
何かというと、
Buddhaの音をうつした言葉である。・
・・・

写真:
2007/09/20撮影

写真:
Birth of Bodhisattva
In the Lumbani Gardens, while Queen Maya was standing holding a branch of tree and assisted by her sister Parja-Pati, she gave birth to the Bodhisattva
Lahore Museum
撮影2007/09/15

宋雲・恵生の推定旅行ルート
『宋雲行紀』長沢和俊
東洋文庫194 平凡社 1971

 この旅程を恵生のケースを例にとって調べてみましょう。

 こうなっていたようです。

 現在のカラコルム・ハイウエイ・ルートと異なっておりま
す。ワカンから南下してギルギットに出ます。フンザを経由
しないのです。さらにダレルの谷からインダス河を離れてミ
ルゴーラ(現在のスワート)に直接はいります。べシャムを
通らないのです。そして現在のペシャワールに入るのです。
上の白鳥説と幾分ことなりますが、このように理解したほう
が、大唐西域記の記述とも合致します。玄奘三蔵はたしかミ
ルゴーラ経由ギルギットまで行ったのでしたよね。

 以上から博士は、後漢の初めに支那に仏教が伝わっ
ていたことは確実な事実で
あるとして、次のように断
定する。



   1.     前漢末、紀元前二年か三年に、すでにインド
  から支那に仏教が伝わっていた。

      2.     伝わったルートは、『漢書』に見えている
賓烏弋山離道」である。


 中国からの具体的なルートというのは、と白鳥博士
は説明する。

写真:
Attack of Mara’s Army
Lahore Museum
撮影 2007/09/15