西暦18941985年(明治27-28年)、
日清戦争


西暦1901年(明治34年)

繁栄期

――日清戦争後の好況の波に乗って再び繁栄をとり
 もどし、明治
34年には職工数(家内工業者)も
 
800名内外に増加した。


西暦1905年(明治38年)

好況期が続く。

――箔問屋は26軒に増加して、箔は羽二重に次ぐ
 金沢特産品となった。



西暦1915年、

組合の成立、

――重要物産同業組合法による金沢箔同業組合。
価格に公定相場をつける条項
――「従業心得」に次の記載があった。

  一、金銀箔直段之儀者、江戸表より取寄候節時々高下有之、
   且道中において損箔出来之分、手入方雑費も相懸候由、依
   而以来取寄候節、於町会所遂見分候上、直段相場相極可申
   筈に候。

  直し箔を名目に幕府公定の相場にさらに独占的な価格を附したもので、箔
 株仲間、とりわけ買占資本としての越野佐助の強大な勢力が伺われる。


職人の製造能率
―― 一人前の職人は一人一ヶ月に三寸四方の箔二立(二千枚)を打った。少
 ないもので一立を打った。一立は一回に打立てる金の量で上澄二匁八分にあ
 たり、これから三寸箔千枚をとるのが普通で、熟練した職人はこのほかに二
 百枚ほど余分に打立てた。一立の工賃は年によって高下はあったが、銀三十
 匁が基準で、・・・・。



西暦1864年(元治元年)2月、

幕府による金沢箔製造の黙許

――以上のごとく、直し箔の名義による金銀箔の製造は藩の了解保護の下に継
 続されたが、金銀箔の製造を官業独占とする幕府に対しては依然密造の名を
 免れなかったから、佐助も藩も公許を得るための奔走を続け、幕府も元治元
 年二月、売箔は江戸から購入すべきであるが、藩の御用箔に限り打立てはよ
 ろしいとして盛大化する金沢箔を黙認する態度に出た。
西暦185612月(安政三年)、

新株の結成

――職方団体を解散する一方、佐助は領主の権力をもってより強力な株仲間の結
 成方を具申し、安政三年十二月、いわば公的な統制団体として佐助を中心に新
 株仲間を結成した。藩はこれに対して進んで従業心得を発布(安政三年十二月)
 して保護・監督にあたることを表明したが、これは金沢箔が藩の公許と保護の
 下に、幕府の禁令を無視して製造しうる態勢をととのえたものであると理解さ
 れる。


作業場の集中
――この株仲間の形勢において重要なことは、従来個々に行われてきた作業場が
 一か所に集中され、金銀箔の打ち直しはもちろん、真鍮・銅・錫箔、同粉類の
 打立て一切が佐助の一手に帰し、家内工業者から問屋に進展していたとみられ
 る五名の業者は
(とうどり)として、二十三名の独立工業者は職人として、五十五
 名の徒弟とともに佐助の支配下に統合せられたことである。新工場は山の上宝蔵寺町に新
 設された。

株仲間の出資金
―― 一口銀二百目、合計二百口からなり、一年の利益金は銀約三十貫と見積も
 られていた。この利益金の配当は:


     五歩(5%)・・・・・二百口の株に対する配当
     二厘(0.2%)・・・・取締方佐助の役料
     三厘(0.3%)・・・・棟取五人の役料
     一歩(1%)・・・・・弘化二年の江戸における特許申請運動費の償却
     残り三歩五厘(3.5%)・・・嘉永四年以降の新債にたいする年賦還金
 にあてられた。

株札
――持株には一口一枚ごとに一種の吟味方の印章を押した株札が発行され、『自
 然無拠趣有之職方相止候歟、又は譲替等致候節者』は、その旨吟味方に願い出
 れば、詮議のうえ出資金を返戻することになっていたが、勝手な処分は禁止さ
 れていた。株仲間が藩に上納した冥加金は毎年銀十枚、保証金は出資銀四十三
 貫目のうち二十三貫目にのぼった。
西暦1915年(大正4年)、

三浦彦太郎による機械化

――明治35(1902)金沢市の三浦彦太郎は打箔工
 程の機械化を着想し、大阪から鍛冶工四名を招聘
 して打箔機の製造にとりかかり同年
12月試運転を
 行ったが失敗に終わった。明治
44年にも試作をお
 こなったが、成功せず、結局大正四年、ドイツよ
 り輸入し改良を加えて、手打箔にまさる製品の生
 産が可能な打箔機が完成した。世界第一次大戦

  (1914-1918)の勃発により、ドイツ箔に独占さ
 れていた広大な世界市場が金沢箔の前に開かれて、
 需要が増大した結果である。


  三浦彦太郎は7,5馬力のモーターによる機械製箔
 を開始したが、翌
5年にはこれに見習うもの7戸、
 機械台数
54台を数えるに至った。


  機械製箔の作業場数:
   大正 4年       1工場
   大正 5年       7工場
   大正 6年      11工場
   大正12年       24工場

  機械化による能率の向上
   手打ち時代、優秀な職人で、一ヶ月  3,000
   機械化後、 普通の     ″   5,000

  機械化による生産量の飛躍的な増大

    年     生産枚数    価額    独立営業者  職工数
         (諸箔合計)
   大正3年   7,642万枚   508千円    493戸    801
   大正8年   30,000万枚   3,200千円    644戸     1,900
西暦1872年(明治5年)、

社会は平静を取り戻し、箔需要も回復した。

――明治政府の基礎も固まり、社会も平静に戻って、箔の需要も急速に高まり、
 三百年の禁圧から開放だれた結果、箔業への新規従事者が殺到し、明治
13年前
 後には、箔打職工の数は
1,500人に達した。

この時代の箔の用途と需要地
――当時の主なる需要地は京都西陣で、金襴などの材料に用いられ、これに次ぐ
 ものは名古屋市で、仏壇、仏具、屏風に用いられ、この両市場で金沢箔は、会
 津若松、京都の製品をはるかに凌ぎ、独歩の地位を築き上げたが、それは金沢
 箔がきわめて薄く、粘着力が豊富なためで、それだけ地金の所要量が少なく、
 したがって価格が低廉であったためである。



西暦1881年(明治14年)、

明治
14年から19年にかけての不況
――このような技術的優位によって金沢箔の独占的地位が高まるにつれて業者数
 は増加し、この結果販売競争と粗製濫造が惹き起こされた。そこへ
14年から19
  年にかけての幣制整理期の一般的不況が加わって、業者の没落するもの跡を絶
 たず「工人は多く他業に転じ、一時到るところ当業者の歎声を聞かざるなし」
 という状況となった。



西暦1888年(明治21年)、

組合の成立

――この悲境挽回策として無謀な競争を抑制するための組合が結成された。組合
 の内容については詳細は明らかではない。

下級武士の内職の厳禁
――「従業心得」に下級武士の内職の厳禁が次
 の通り記載された。

  一、真鍮箔等打立方、向後町人共職一手に
   相極め候条、若此後御家中家来等有禄之
   者は勿論、浪人者に而も都而帯刀之者、
   右打立方内職に致候者有之儀及承候はば、
   早速手先主附之者方可被及内達候、将又
   佐助方職人並手伝之者之内に茂、向後帯
   刀之者は堅く不相成候条、厳重相心得可
   申候、若此後帯刀之者密に入交候儀相知
   れ候得ば、夫々相糺し可申候。

  窮乏した下級武士がいかに多く箔打ちを内職
 としたかの証左である。

資 料 ( 4 )

西暦1869年(明治2年)、

金座、銀座の廃止

――金沢藩商法局から大蔵省に送られた伺書

   「今般右金銀座御指止に相成候に付、職方
  等の者地金取受可用道無御座、是迄の活業に
  放れ、迷惑難渋罷在候者多く」


  維新の動乱期において金沢箔業はとても衰微
 した。社会の動乱による工芸美術の衰退による
 箔需要の激減があったこと、ならびに新政府の
 施策により金座・銀座の廃止により地金を取得
 する経路が喪失したためである。


  幕府の製箔統制機関であった金座・銀座の廃
 止、箔の自由営業への開放により、江戸=東京
 における製箔を永久に杜絶せしめる結果となっ
 た。また、金沢では、領主的支配による独占的
 製造システムは崩壊し、棟取は純問屋資本にも
 どり、金沢の箔製造はここに問屋制家内工業に
 戻った。

写真:
(箔打紙。
和紙に灰汁汁と柿渋を染込ませ、
叩解して製する。)