西暦1961年(昭和36年)並びに1962年、

東西本願寺の御遠忌ブーム

――世相も落ち着きをとりもどし、日本経済の成
 長とともに、金箔の需要も次第に増加を示し、
 また生産面では低工賃と長期間の休業のため、
 脱落者が相次いだので、需給のバランスも徐々
 に好転してきたところへ、昭和
36・7年の東西
 本願寺の御遠忌ブームを迎えた。


  このとき、金箔36分千枚の加工料、3,000円
  -3,500
円程度であったものが、12,000千円まで急
 騰した。


  その後和服ブーム、建築ブームの波に乗り、
 高度経済成長にともなう好景気が昭和
41年まで
 続いた。



競合製品の台頭

――この頃、真空蒸着によるスタンピングフォイ
 ル(乾式の「箔」と称せられる)が銀箔・洋箔
 の需要を持ち去り、圧延技術の進展によるアル
 ミフォイルが従来のアルミ箔の需要を根こそぎ
 持ち去る事態が発生した。

西暦193712月(昭和12年)、

南京事件




西暦19371223日、

「金の使用制限令」

――純金の統制令、箔の生産も制限された。




西暦19407月、奢侈品制限規則

――自由売買が禁止された。地金だけでなく、
金箔・金糸・金粉・金化合物なども使用制限を
受けた。




西暦194112月、

対米宣戦布告。


――金箔の生産はほとんど出来なくなる。

西暦1920年(大正9年)

戦後の反落


――第一次世界大戦終了後の反動で、箔の生産量は大正
8年をピークとして、その
 後反落が始まる。




西暦1924年(大正13年)

不況期に採用された対策、品質改良と生産制限


品質改良

――組合で上澄の規格を設定、澄元を十名に制限した上、規格外の澄の製造を禁
 止した。


   更に昭和6(1931)、組合に合金所を設け、電気炉による集中生産を開始し
 た。


   これらにより、上澄の原価は低下し、製品は規格化して品位保持に資した。


生産制限

――職工数の増加を抑制するため、ギルド類似の証札を発行し、証札のないもの
 の打箔を厳重に取締り、万一製造過剰でストックとなった場合は、問屋、職人
 合意のうえで休業するという方策を採った。

  この場合休業手当として1千枚につき二円の積立金を問屋、職人折半して負
 担し、さらに販売統制会を組織し、問屋(商部)職人(工部)全員が加入して
 販売価格および工賃を統制する一方、全生産品を一応統制会でプールした。統
 制会のストックが百五十万枚になれば全業者は休業し、職人には積立金から休
 業手当を出す仕組みであるが、これによって問屋は資金難からも救出されるこ
 ととなった。


その他の方策


――その他、切紙の共同仕入れ、製品検査などを行った。



西暦1929年(昭和4年)世界大恐慌による不況

――不景気で基礎薄弱な小生産者は淘汰された。



西暦1931年(昭和6年)

金輸出再禁止を契機とする輸出増強政策

  918日、中国東北侵略戦争、翌年満州国が樹立された。



西暦1934年(昭和9年)

為替ダンピングによる輸出増強政策


――の結果、大正
8年の産額を凌いだ。

生産高の大拡張

――   年        生産枚数


    昭和
5年      11,000万枚
    昭和6年      13,400万枚
    昭和9年      30,600万枚
    昭和11年            52,000万枚

 という熱狂的な増産を続けた。これらは北南米、豪州、インド市場において、
 価格の低廉を武器としてドイツ製品との競争に打ち勝った結果であり、金沢箔
 の黄金時代を劃した。

資 料 ( 5 )

画像:
阿弥陀三尊来迎図 
鎌倉時代(14世紀)
絹本著色 掛幅 No.215
ベルリン東洋美術館蔵
『秘蔵日本美術大観7 ベルリン東洋美術館』
平山郁夫、
講談社、
1992

西暦1965年(昭和40年)、

断切箔の製造法が確立


――カーボン紙を用いた金箔の簡便製造法が確立し
 た。工程数は縁付の十分の一、箔打ち時間は五分
 の一、価格も安く、汎用素材用途に適している。




西暦1968年(昭和43年)、

断切箔に空前のブーム。


――打っても打っても片端から売れていくという断
 切箔のブームが生じた。


  昭和45年頃には断切箔の生産が縁付の生産を上
 回った。



西暦1973年(昭和48年)、

オイルショック


――昭和4810月に勃発した第4次中東戦争により
 産油国とメジャーの立場が逆転し、石油価格が高
 騰し、昭和
49年と昭和54年との二度にわたり、日
 本経済は大きな打撃を受け、国内の物価が狂乱的
 に上昇した。この頃から金箔の生産量はピークを
 過ぎて、販売額が減少に転ずる。




西暦1982年(昭和57年)、

断切箔の生産過剰による工賃の低下


――金箔全体の需要量の伸びが鈍化して、コストダ
 ウン要請が強くなり、三年連続で断切箔の工賃は
 年率
50%落ち続けた。断切職人のなかから自殺者が
 出た。




西暦1989年(平成元年)、

バブルの崩壊。


――これ以降、金箔の生産枚数は年間8,000万枚から
  2,000万枚へと激減した。金箔全体に占める縁付の
 割合は
20%で、この割合は変わらない。

以上。

西暦1945815(昭和20)

敗戦。


――経済再建、見返り輸出の必要性から、業界は残存設備と徴兵・徴用から開放
 された職人・徒弟を糾合して復興に乗り出したが、金・銀地金の使用制限は緩
 められず、洋箔、アルミ箔への転換を行い、市場の回復と輸出に努めた。


  当時、金箔業界では、金地金使用は一々進駐軍の許可を得なければならず、
 戦時中より設立されていた石川県金箔配給有限会社が政府支給の金地金を一手
 に引き受け、金箔を独占的に販売していた。おりしも復興景気の波に乗り、非
 常な需要があったにもかかわらず、原料面のきびしい制限をうけていたので、
 有限会社の出資組合員は独占的な利益を享受した。




西暦19473月(昭和22年)、

名称変更

――石川県箔商工業協同組合に変更。




西暦19506月(昭和25年)、

朝鮮戦争勃発




西暦19537月(昭和28年)、

朝鮮戦争休戦。


――朝鮮動乱前後より、原料面の制約も徐々に緩められ、更に安価な密輸の金地
 金が豊富に出回るようになってきたので、非組合員の業者数が大幅に増加し、
 金箔の限定された市場に大きな混乱をきたした。金地金の限定された供給によ
 って成立していた統制組織は簡単に崩壊した。



西暦195381日(昭和28年)、

金地金使用制限解除


――金地金使用制限解除を契機として、石川県金箔配給有限会社は解散し、各自、
 自由な製造、販売を開始した。


  多数の職人が復帰して生産を始めたが、折からの一般不況に遭遇して、金箔
 の需給関係が甚だしく悪化したため、




西暦1955年(昭和30年)、

不況の理由で一斉休業の実施


――昭和30年前後より組合では生産部の一斉休業の措置を取り、暴落した価格、
 工賃の回復をはかった。一ヶ月に二週間の操業しか許さない、という最悪の事
 態が生じた。


  この強力な休業措置を避けるため、金沢を離れて、松任、美川、さらに県外
 の砺波方面で生産をはかるものが続出し、生産制限がうまく機能しない事態と
 なった。