西暦1851年(嘉永四年)2月、佐助による職方団
             体(株仲間)の結成


――にもかかわらず密造・密売は絶えなかったの
 で、佐助は利益を口数に応じて分配する職方団
 体の組織を提唱した。嘉永一口銀二百目の割合
 で二百十八口を出資することに成功した。加盟
 したのは佐助を入れて二十名の同業者であった。

  ところがこのギルドは、職人の利益を守る職
 人組合ではなく、商人が自らの利益を守るため、
 同業者間の競争を防止するための商業資本の手
 工業支配の手段として、領主の権威をもって強
 制的に形成されたものであったから、手工業者
 はこれに反発して、密造・密売が絶えることに
 はならなかった。




西暦1854年(安政元年)、職方団体の解散

――また下級武士で内職として製箔に従事するも
 のも多く、そのうえ、移入箔は湿気を吸収して
 損じ箔となるものが多く、販路を失って職方団
 体の利益は全くなくなり、佐助はこれを解散す
 るのやむなきに至った。

西暦18458月(弘化二年)、特許の取得

――こうして能登屋佐助は、江戸製金箔、京
 製銀箔を加賀領内で専売する特許を得た。


  佐助が金座に提出した特約誓書は「箔方
 諸事旧記」に次の通り控えられている。

  一、江戸金箔屋之外、職人共より直相対
   を以、金箔類買入候儀は勿論、其外箔
   屑類買入、於自宅金箔製候儀堅不相成
   事。


  一、改印無之金箔類商売致間敷候事。

  一、金箔類之儀、江戸金箔屋共より仲間
   内取り引、安値段を以買人、且売出し
   値段の儀者、金箔屋共去亥年(天保十
   年)中申立定書之通可相心得事。


  一、金箔類、江戸金箔屋誰々方より何程
   買入、何程売出し候段、差引書毎年可
   差出候。


  右之条々堅相守、聊心得違無之可取扱候。
  巳八月(弘化二年)

資 料 ( 3 )

西暦1826年(文政九年)、幕府による再々度
           の布告


――加賀藩が正式に製箔職の停止を命令。

  このような度重なる禁令にもかかわらず、
 藩は自用の金銀箔を領内で自給することを
 続けた。業者もまた藩のこの弱点を利用し
 て、表向きは真鍮、錫、銅箔類の製造を名
 として、実は金銀箔を盛んに製造して密売
 し、とくに藩の下命の際これに便乗して余
 分のものを作るという手をとった。


  こうして箔打ち密造は半ば公然と一般化
 していたが、しかし金銀箔の製造は依然公
 儀のご法度で、その後も「折々御改方御役
 所より職方御取調理」あって「同職一統」
 の「難渋」は一方ならぬものがあり、ここ
 に江戸金座に対する特許運動が行われるに
 至るのである。

西暦1,7755月、安永4年、

――幕府は令を発し、諸国で箔を打つことを禁
 じた。


  文化、文政年間にも同じ禁止令が発布され
 た。



西暦1785年、江戸に共同市場の設定

――金座、銀座の監督のもとに免許営業を行っ
 た箔屋は多くの手工業者と同様、株仲間を形
 成した。京都の銀箔屋は江戸に共同市場を設
 置するほどの強大な勢力をもった。

西暦1845年、金銀箔の佐助経由売買の指令

――金銀箔の専売権はこのようにして佐助の独占に帰したが、金沢の箔業者
 は真鍮、銅、錫箔を打つという名目で、主として金貨を地金として金箔を
 製造し、その売り捌きも半ば公然化し、生産量も増え、「中に他国えも売
 出し候者、追々人多に相成」っていたから、藩は佐助の特許を機会に、密
 造防止のため一切の箔を一たん佐助を経由して売り捌くよう指令した。


  こうして佐助は一たん買い占めた諸箔を、江戸・京都からの移入の金銀
 箔とともに、さらに尾張町紙屋庄三郎、片町津幡屋勘七を代理者として領
 内はもとより、富山、高岡、大聖寺などの支藩一帯にわたって販売させる
 ことにした。

西暦184210月(天保13年)11月、特許願いの提出

――特許運動の先頭を切ったものは、金沢卯辰の箔屋・能登屋佐助であった。

  彼は自身江戸へ上り、尾州、仙台、会津、富山四藩に特許の例があるから
 『江戸御留守居様より御願立も御座候者可被為有御聞届哉』との情報を得て、
 天保十三年十一月、


    藩の自用箔は金沢で打立てること、
    売箔は江戸より取りよせて専売すること、
    輸送途中の損じ箔の打ち直しを許可せられたいこと、

 の三か条の特許願いを藩の町奉行に提出した。



西暦1844年(弘化元年)4月、能登屋佐助による専売権の確立

――藩は直ちに江戸邸に聞番をして幕府に運動させたが、要領をえなかったの
 で、弘化元年四月、直接勘定奉行に書面を提出したところ、


    加賀藩領内において、江戸製金箔を請売りするものを一人に指定する
   ことは妨げないが、


    国元で打箔に従事することは、たとい藩侯所要のものに限るとも許可
   できない、


 との回答があった。

西暦1,800年、文化年中、京都の児玉某が大寸もの(方7寸)を製した。

――文化(1804-1818)、文政(1818-1830)時代、加賀藩文化が華美爛熟の
 極に達し、風俗奢侈をきわめた時代、大量の金銀箔の需要があり、もはや江
 戸、京都からの移入や少量の密造品では満足できなくなった。また、独占的
 な高値の既製商品を移入すうことは加賀藩の財政をも圧迫することとなった
 ため、藩自身自給の必要性を痛感していたところ、


          

西暦1808年(文化5年)正月十五日夜、金沢城二の丸から出火、御殿・御広式
      
(おひろしき)が炎上。


――この再建のため、莫大な金箔が必要となった。二の丸の構造の壮麗さ・華
 美は以前に倍するといわれ、工賃銀五千貫、屏風障子はすべて金をめぐらし
 た豪華さで、金箔の需要の莫大さが推定される。


  ここにおいて藩は、幕府の法令が弛緩したのに乗じ藩内自給を計画し、金
 沢安江木町の町人箔屋伊助に金銀箔の調達を命じた。「箔方諸事旧記」によ
 れば、伊助は京都から職人を呼び、大々的に製造した。工事完了後も藩はひ
 きつづき伊助を棟取職として、金銀箔製造の特許を与え、冥加金(雑税の一
 種)として毎年四寸金箔三百枚を上納せしめた。


  京都の箔職人が離沢してからは、技術が未熟で良質のものができず、伊助
 はまもなく製箔を中止したが、その徒弟であった材木町の安田屋助三郎がこ
 れを継ぎ、仲間の一人越中屋与三右門を京都に送り、近江屋忠兵衛について
 技術を習得させてからは、江戸、京都に劣らない製品を産むようになり、こ
 こで金沢の製箔術は一応の自立をなしとげた。



西暦1819年(文政二年)、前田(なりなが)による兼六園内の竹沢御殿築造

――この際は、所要の金銀箔はことごとく安田屋の手によって製造された。


西暦1820年(文政三年)4月、幕府の統制令

――幕府の統制は再び厳重となり、箔座を廃して金箔は金座に、銀箔は銀座に
 管理せしめ、江戸、京都以外の箔打立てを改めて厳禁する旨を布告したから、
 加賀藩もやむをえず翌四年(
1821)これを当業者に伝達したが、これは表面
 上のことで、藩自身の需要する金銀箔は依然製造させ続けた。こうして私造、
 密造が広く行われることとなった。


西暦1824年(文政七年)、幕府による再度の布告

――文政三年の禁令を格守すべきことを布告したが、これは私造、密造の横行
 を物語るものである。