ウイリアム・ジェイムズ(1842, New York-1910, Chocoura,
New Hampshire)
は、アメリカの心理学者であり、哲学者であ
った。

アメリカ合衆国ではもっとも著名な学者であり、アメリカ人
の思想を作ったとされる。したがって、彼の思想を研究すれば、
多かれ少なかれ、アメリカ人のものの考え方がわかるようにな
るかもしれない。

『宗教的経験の諸相』は1901-1902年に英国のエジンバラ大
学で行われた
Gifford Lecturesに基づくものであり、宗教者の
原体験の収集という観点からの評価が高い。

『宗教的経験の諸相』

この書物『宗教的経験の諸相』をお読みになった方
はすぐ理解されるだろうが、なんといっても秀麗なの
は、第六・七講
「病める魂」の記述の深さ、真実性で
ある。人間の歴史上、人間の負の精神面をこれほど的
確に描写した書物は他にみあたらないように思う。

特に憂鬱病者によって書かれたとされる圧倒的
の記述(上巻
P242)はB体験の完璧な描写であり、
既体験者でなければ著述できない恐怖感が表現されて
おり、この書物の最大のセールス・ポイントである。

筆者は、観点を変えて、この本をジェイムズによる
「魂の告白」と捉え、彼の精神的な自叙伝として読む
こととしたい。

なお、ウイリアム・ジェイムズについては、きわめ
て浩瀚な
websiteであるWilliam Jamesが存在し、筆者
は岩波文庫本を除いては、参考文献をほとんどこの

websiteに頼っている。

本稿は、

   ウイリアム・ジェイムズ
  『宗教的経験の諸相』
  桝田啓三郎訳、
  岩波書店
1969

を使用して、ウイリアム・ジェイ
ムズを分析しようとするものであ
る。

 従って、読者諸氏のご理解を得るためには、


  @ 西欧型(Aにもとづく)哲学者とどこがどう
      違っているのか、をまず分析して確定し、


    A ひきつづいてジェイムズの心理の根元まで
      下がっていって調べ上げ、
B2型哲学者という
      ユニークな性格を顕わにし、


    B 日本人の哲学、すなわち、仏教哲学との立
      場の差はどうなっているのかを確定すること
      にしよう。

 こうすることによって初めてジェイムズの「過去に
例を見ない」天才たる所以を解明することができる。

背景に構築されているべき哲学が欠けているのが問題で、
だから、『宗教的経験の諸相』のなかでは、ジェイムズによ
る説得力ある記述はほとんど認められず、視点が常にぐらぐ
らと変化する。まじめにこの本を読む読者は「船酔い」に罹
ってしまう。

なにが彼をしてこのような本を書かせたのだろう。これが
まず注目されるべきポイントとなる。

ただ、この著者は、「通常の哲学者・心理学者の枠から外
れた」型破りの存在のようだ。有史以来の西欧の哲学界にあ
ってきわめてユニークなタイプであると言える。どこがどう
おかしいのか、というと、厳密な意味でこの人は従来の意味
での西欧型の哲学者ではない。西欧では、哲学はプラトンが
創始したことになっており、従って「神秘体験
Aを経験済み
であること」が哲学者たることの前提条件となっている。だ
から私たちは、プラトンからカント、ヘーゲルに至るまで
A
経験にもとづく論理構成を、「即座に、直観的に」理解でき
る人を哲学者と呼ぶのであるが、ウィリアム・ジェイムズと
いう人は肝心の
A経験を持ち合わせていない。だから西欧型
の哲学の話をさせると、発言がちぐはぐになる。発言に辻褄
が合わない。いわゆる常識に欠けた哲学者なのだ。はじめは
冗談を言っているのかと訝るのだが、どうやら本人は本気な
のである。