どうしてジェイムズが「Aなし人間」であることが断定できるかとい
うと、おおざっぱに言って、次の四点である。


1. まず自分自ら、Aではないことを告白している。

        『宗教的経験の諸相』 P182

「私自身の性質として、神秘な状態を享楽することが私には全
然できないといっていいくらいなのであって、私としてはその
状態についてはただ間接的にしか語れないからである。」


2.  A onlyタイプであるイマヌエル・カントが理解できていない。

        『宗教的経験の諸相』上 P86

「イマヌエル・カントは、神、世界創造の計画、魂、魂の自由、
死後の生命のような信仰の対象となるものについて、奇妙な
説をとなえた。」

『宗教的経験の諸相』上 P87

「カント哲学のこのとくに奇怪な部分が正確なものであるかど
うか・・・・・」

と記述し、プラトンのイデア以降の西洋唯心論哲学の本流をな
すカントの神秘主義が理解できていないことを示している。カ
ントの思想のコアについては、
を参照のこと


3.  A体験を「回心」と取り間違えている。

『宗教的経験の諸相』上巻 P321 聖者デヴィッド・ブレイナー
ドの
A体験を、宗教体験である「回心」と取り間違えている。
A体験と「回心」の差については後述する。)

 同P337 アルフォンス・ラティスボンヌのA体験を回心と取り
間違えている。

 同じくP370-373 リューバ教授の記述。A体験を回心と取り間
違えている。

 ジェイムズ本人がA体験を経験していないものだから、A体験
と回心との差が読めていない。


4. 「第十六・十七講 神秘主義」の記述が的外れである。

神秘主義というのは、(西欧型哲学者にとっては)神秘体験A
に基づく唯心論哲学とキリスト教神秘主義を指すのであるが、

Aとは関係のないルターを引き合いにだしたり(『宗教的経験
    の諸相』下
P186)、

         Bそのものを神秘体験Aと勘違いしたり(『宗教的経験の諸相』
       下
P191)、

        薬物による疑似体験を長々と引用したりして(『宗教的経験の
       諸相』下
P192)、

         結局神秘主義A体験については申し訳程度に

              J・トレヴォーアとRM・バック博士

の二例(下 P210)を記述するにとどまり、しかも、その記述も
中身がない。中身の分析ができていない。

A 体 験 が 欠 落

 まず@なのですが、従来の西欧型の
オーソドックスな哲学者と比較すると、
彼には
A経験がかけている。

プラトンの称する「イデア」、プロテ
ィノスの「一者」、
カトリックの称する
「神の恩寵」、カントの「統覚の先験的
自我」などの根源的出発体験である
A
識が抜け落ちている。だから、オーソド
ックスな西欧型哲学人間ではない。少な
くとも、西欧型哲学人間にとって、ジェ
イムズは「余所者」であり、「理解しが
たい、和解しがたい」人間であり、村八
分にしたい類の人間である。

つまり、これらの諸点から察するに、ジェイムズは
A体験を経験しておらず、Aにもとづく哲学にたいする
理解とか、
A体験を分析する能力とか、A体験に賛同す
る心の準備がまったくないことを示している。


 Aが欠如しているのであるから、彼はAタイプではな
いことはもちろん、
A after Bでも、B after Aでもない。


 体験していない彼にAに対する理解を求めることには
もともと無理がある。だから、
Aを体験していない人に
生じる誤解を、読者である私たちが読み解いていかな
ければならない。手間がかかるのです。