勝 鬘 経 義 疏

 さあ、これで私たちは日本の哲学の源をたどるための下調べをほぼおわっ
た。

わたしたちがこれまでに調べ上げたことは、


     1.      釈迦の知恵は仏教という形をとって日本に流れ込んできた。欽明七年
           (538)であった。

     2.      いささかの紆余曲折はあったが、推古天皇二年二月推古天皇による詔
      (みことのり)があり、引き続き、推古天皇十二年に憲法(いつくし
       きのり)十七條(とをあまりななをち)が発布されて、仏教は実質上
       日本の国教となった。


     3.      このときに摂政をなさっておられたのが聖徳太子であるから、聖徳太
       子が日本の哲学のことの始めであると断定してもさしつかえはないだ
       ろう。また、推古二年二月の詔は、聖徳太子の家庭教師である高麗僧
       の恵慈が来朝した推古天皇三年より先になされたのであるから、三宝
       を敬う決定は、推古天皇と聖徳太子との合議であり、その際、他国か
       らの干渉とか強制とかは存在せず、日本独自の決定であった、と断定
       してもよかろう。


     4.      大乗仏教の骨格は、今も昔も変わらず、

        『般若心経』
        『法華経』
             『浄土三部経』

     の三経であるが、あとの二経は信仰がからむ宗教経典であると断定す
       る。すると、仏
教哲学は、『般若心経』に述べられている「空」とい
       う哲学思想に集約されていること
になる。

     5.      「空」の思想を体現(visualize)しているのが、法隆寺の百済観音である。

     6.      「空」の思想を『般若心経』から読み取る試みは、失敗におわる。当
        代一流の学者中村元氏による現代語訳は明快な解釈を私たちに伝え
        ない。使われている用語の時代背景をともなう意味合いが古代と現
        代では変化してしまっているから、字句通りに翻訳してもその当時
        の含意を伝えないのである。


     7.      そもそも「空」という概念が釈迦の哲学の中心思想であることを発見
       したのは、西暦
200年頃にインドで活動した竜樹(ナーガールジュナ、
       
Nagarjuna)という人であるが、竜樹の思想をうまく簡潔に解説して
       いるのは、三枝充悳博士の『龍樹・親鸞ノート』宝蔵館 
1997である。
       彼だけが、はったりをかませず、学者的に解釈しようとしている。

    8.      三枝博士の解説で薪(まき)と火の譬えを読んでおこう。また、
       世俗諦と勝義諦とのあいだに、竜樹による詳しい解説がないままに、
       概念の飛躍があることも理解しておこう。

写真:
   阿彌陀佛三尊銅像
    隋(西暦581-618年)
   通高37.6cm
   上海博物館
     2005 11 21撮影

   ちょうど聖徳太子が活躍されて
   た頃、中国でつくられた阿弥陀

   尊像が上海博物館にある。楚楚

   した雰囲気がとても素敵だ。

写真:犧尊
    Ox-shaped zun (wine vessel)
   春秋晩期(紀元前6世紀前半ころ−
     BC476年)
    1923年山西渾源県李峪村出土
    上海博物館
     2005 11 21撮影

   饕餮の目を水牛の目に同調させてし
   まった。素晴らしく美しい。上海博
     物館の青銅器コレクションのなかで
   はもっとも優美ではなかろうか。

 こうなると、聖徳太子の時代に生きた人たちと、現代に生きるわれわれと
の間に、哲学上の疑問という点では、あまり大きな差もないことになる。


 聖徳太子は、意識的にそう図られたのか、あるいは論理的な帰結としてそ
こに向かわれたのかは判然とはしないが、現代のわれわれから見ても哲学上
の核心となるただ一点に敢然と挑戦された、と考えてよいし、あらゆる角度
から観察しても、彼はすでにその核心を体得しておられた、と断定すべき箇
所が発見できる。



 日本書紀巻二十二推古十四年の項に次の記述がある。


               秋(あき)七月(ふみづき)に、天皇、皇太子(ひつぎのみこ)
         を請(ま)せて
勝鬘経(しょうまんぎょう)を講(と)かしめたま
         ふ。三日(みか)に説(と)
き竟(を)へつ。

                是歳(ことし)、皇太子、亦(また)法華経(ほふくゑきやう)
         を岡本宮(をかも
とのみや)に講(と)く。天皇、大(おほ)きに
         喜(よろこ)びて、播磨国(は
りまのくに)の水田(た)百町(も
         もところ)を皇太子に施(おく)りたまふ。

                因(よ)りて斑鳩寺(いかるがでら)に納(い)れたまふ。
                            (坂本太郎ほか『日本書紀(四)』ワイド版岩波文庫233
                                                  岩波書店
2003 P188)

 このような仏教哲学の核心を解説するために、聖徳太子は勝鬘経を用いら
れた。そして、勝鬘経の解説書として『勝鬘経義疏』を祖述された。聖徳太
子により祖述されたとする『勝鬘経義疏』はその原本ではないが、鎌倉時代
に印刷された法隆寺蔵版本が残っている。

 その後、藤枝晃は、敦煌写本のなかに見つかったE本と称する古書の

              「七割ばかりの分量の文章が『勝鬘経義疏』と同文であるばかりで
        なく、『勝鬘経
義疏』の中で「本義」と呼んでいる本にほぼ当るこ
        とも判った。」

                            (家永三郎ほか『聖徳太子集』日本思想体系2 
                                               岩波書店 
1975 P487)

と述べ、聖徳太子ご自身の祖述とする見解に疑問を提出した。

 はたして、『勝鬘経義疏』の全文を聖徳太子ご自身がお書きになられたものか、あるいは、藤枝氏の指摘されるとおり、種本があって、聖徳太子がその種本にご自分の見解を記入されただけなのか、という疑問はさておいても、『日本書紀』に記載してあるとおり、この本を稿本として聖徳太子が講義をされたことは誰も否定できないだろうし、この本を用いられたという事実は、聖徳太子が、単に大乗仏教の法華思想を解説されたという領域を越えて、大乗仏教のコアである「空」の思想に踏み込まれた、という事実を指し示しているように思われる。その当時、『勝鬘経』のみが、仏教哲学の核心にせまることのできる哲学書であった、と推定される。


 では、『勝鬘経義疏』にはいったいなにが書いてあるのだろうか。

写真:
     馬家窯文化彩陶鳥紋壷
         Painted pottery pot with bird pattern
      石嶺下類型
      約BC3800
      上海博物館
          2005 11 21撮影

      この彩陶文化の赤壷は
      形にも模様にも
      芸術性があふれている。