実 在 の 真 景

写真:

七盤舞女立俑 後漢(紀元
25年−220年)

1970年 洛陽澗西七里河の漢墓から出土

『洛陽文物精粋』王綉等編 鄭州 河南美術出版社 2001.4

第三章       実在の真景

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 純粋経験においては未だ知情意の分離なく、唯一の活動であるように、また未だ主観客観の対立もない。……… 直接経験の上においてはただ独立自全の一事実あるのみである。見る主観もなければ見らるる客観もない。恰も我々が美妙なる音楽に心を奪われ、物我相忘れ、天地ただ嚠喨たる一楽声のみなるが如く、この刹那いわゆる真実在が現前している。

 ………………

 かくの如く主客の未だ分かれざる独立自全の真実在は知情意を一にしたものである。

 ………………
                    (『善の研究』岩波文庫)

 では、神秘的直覚に到達すると、なにがどうな
るのか、本人はどのように感じるのか。幾多郎は
次の通りだと述べる。

1.その瞬間は実在そのものであり、それはあと
で分析すれば、知情意(知覚と情意と意思)
の合一したものであった。

2.そのときの様子はといえば、美妙なる音楽に
心を奪われるような楽しさを伴い、
忘我の境
地であり、
天地を統べる唯一の理屈がわかり、
「我ここに実在せり」という感覚を伴う。

3.(後段で幾多郎が説明することだが)知情意
  合一といったけれども、後で考えてみると知
  情意のうち、どちらかというと意志(意識に
  内在する自然の意志とも呼ばれるべきもの)
  が強かったから、

         意志 = 純粋経験の事実
  といえるのではなかろうか、

と述べている。

 松篁の場合は、「水の音」が聞こえたのにたいし、幾多郎の場合は、「美妙なる音楽」に心を奪われた、と若干の個人的な表現の差が観察されるが、そのとき生じた心理現象は同一である、と言い切れるのではなかろうか。

写真:

冒頭の写真には欠けているけれど、後漢の時代の女性は床に置かれた七個の盤(小さな太鼓)を踏んでメロディーを奏でていたらしい。美妙なる音楽が聞こえてきませんか?

出典は同上。

女俑は頭に山形の髻を結っており、上着は長袖で短い丈の裾、下穿きは長いズボンを穿いている。両手は袖を振る姿勢を見せ、左の足は後ろに置き、右足で地面に置かれた小さな太鼓を踏んでいる。太鼓を踏んで踊る姿勢である。灰色の陶土に白色の下地、赤と黒の彩色をかけている。