真実在は常に同一の形式

 第四章 真実在は常に同一の形式を有っている

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 真正の実在は芸術の真意の如く互に相伝うることのできない者である。伝えうべき者はただ抽象的空殻である。

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  独立自全なる真実在の成立する方式を考えて見ると、皆同一の形式に由って成立するのである。即ち次の如き形式に由るのである。先ず全体が含蓄的implicitに現われる、それよりその内容が分化発展する、而してこの分化発展が終った時実在の全体が実現せられ完成せられるのである。一言にていえば、一つの者が自分自身にて発展完成するのである。

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 ジェームズが「意識の流」においていったように、凡て意識は右の如き形式をなしている。たとえば一文章を意識の上に想起するとせよ、その主語が意識上に現われた時已に全文章を暗に含んでいる。但し客語が現れて来る時その内容が発展実現せらるるのである。

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                (『善の研究』岩波文庫より)

 「真正の実在は相伝うることのできない者である」というfirst paragraphは自家撞着の典型である。「伝うべき者は唯抽象的空殻である」とすれば、この『善の研究』は『空殻の研究』に転じてしまう。幾多郎は禅宗で言い回しされている「相伝不能」「不立文字」を口に出したかったのに違いないが、物書きは間違ってもこれを口に出してはならない。

 second paragraphも理解しにくい。

 幾多郎は自らの体験のほかに他人の体験をも追体験したことがあるのだろうか。first paragraphでは相伝不能といっておきながら、「常に同一の形式」と断定できるのであろうか。あるいは純粋体験は反復性をもつがゆえに、何回も純粋体験を続けて体験した結果、経験的にそう結論付けたのであろうか。

画題:
Egon Schiele (1890-1918)
『囚人としての自画像』1912  水彩 鉛筆 紙
ウィーン、アルベルティーナ素描版画館
クリストファー・ショート
『シーレ』
松下ゆう子
西村書店 2001

『善の研究』が出版されて一年もしないうちに発表されたこのスケッチは、拘禁によって生じた絶望感を鮮明に表わしている。

絶望と遺棄の完璧なイメージは幾多郎の描くひとりよがりの楽天主義よりは、はるかに胸を撃つ。