意識現象が唯一の実在

写真:
   河南省嵩山の少林寺
   入場料40元を払えば
   誰でも入手できる入場券なのだが
   よく観察するとまことにユニークだ。
   下の拡大写真を見て欲しい。

参観は入場券所持者に限る
と書いてある部分の写真が凄まじい。
寺僧はなんと石床に杖を立て、
腕力だけに頼って倒立する。
バランスをとる目的なのだろうが、
両脚の形が実に異様だ。

意識が身体の中にあるのではなく、
身体はかえって自己の意識の中に
あるのである、という逆説は
この場合には成立しているかも。

第二章      意識現象が唯一の実在である。

 少しの仮定も置かない直接の知識に基づいて見れば、実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである。この外に実在というのは思惟の要求よりいでたる仮定にすぎない。已に意識現象の範囲を脱せぬ思惟の作用に、経験以上の実在を直覚する神秘的能力なきは言うまでもなく、これらの仮定は、つまり思惟が直接経験の事実を系統的に組織するために起った抽象的概念である。

 ………………

 普通には我々の意識現象というのは、物体界の中特に動物の神経系統に伴う一種の現象であると考えられている。しかし少しく反省して見ると、我々に最も直接的である原始的事実は意識現象であって、物体現象ではない。我々の身体もやはり自己の意識現象の一部にすぎない。意識が身体の中にあるのではなく、身体はかえって自己の意識の中にあるのである。

 ………………
               (『善の研究』岩波書店)

 読者にはきっと理解が難しいポイントになろう。ひとつひとつの意識現象が唯一の信用すべき(信用されるべき)実在であるといわれても、ではそのひとつひとつの意識現象になんの意味があるのかと問いたくなるだろう。

 松篁のように神秘的直覚を経験した人は、

        意識 = 実在

の感覚的論理(論理の飛躍ともいえよう)を身体で理解しているので、この方程式が論理的に意味をなしてくる。この人たちにとって、神秘的直覚を経験したあとでは、意識に内在する方向性が読み取れると信じるからなのだ。また、この感得経験があるからこそ、「意識が身体の中にあるのではなく、身体は反って自己の意識の中にある」との逆説が立派に成立する。

 たとえば、玉城康四郎は東大図書館で二回目の目覚
めに到達したとき、「意識と存在とが合致している」
と報告する。
 また、林武は彼の二回目の体験を分析して言う。
「僕はまさしく実在を霊感したのだ!」

 このように(+)excited stateに到達したことのある
人にとっては、つまり直接の知識を得たあとでは、意
識という精神作用の実体は「実在」であり、それは光
であり、生命であり、すべての生命体の根源である、
と感じるものであるから、上のような主張をするにい
たる。

 この論理は排他的で超越的な論理であるから、
(+)excited stateにあがったことのない人にとっては、
理解できる論理にはならない。

 だから、わからなければ、それが当然でありますか
ら、この部分は読み飛ばしていただいて結構なのです。

なお、ref
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%
9B%BD%E6%8B%B3%E6%B3%95#.E6.AD.B4
.E5.8F.B2