今まで私は一人で自分の心の中を覗きこんで調査してきたが、この
経験が苦しみであり、この苦しみがあまりに強いので、お互いに誰か
と語り合いたい気持ちにかられる。だが、同じ経験をした人は周囲に
見当たらない。すると、話すに話せない孤独感が生じて、それが私の
苦しみを倍加する、と彼女は述べる。
彼女は、これらの記述のあとで、この道こそ「十字架の道」であろ
う(自20-15)。さらに、きっとこの苦しみは別の種類の恩寵であり、
「霊魂は、この苦しみのなかで清められ、るつぼのなかの金のように、
そこで精錬され、純化され、主のたまものなる七宝(しっぽう)をち
りばめられるのにもっと適したものにされる」、つまり、この過程は
自分の魂を純化するのに必要なステップであろう(自20-16)、と説明
しているのだが、もしもそうだとすると辻褄が合わなくなる。
われわれは、彼女が徳性のきわめて強い人間だったことを思い起こ
す必要があるだろう。彼女の人一倍強い徳性が、その当時の彼女の周
囲の人たちにたいする配慮の念から、このようなキリスト教(カトリ
ック)の教義を擁護させる発言をさせたのである、と考えたほうがよ
いのではなかろうか。
彼女の言葉とは裏腹に、実際には、彼女の心のなかで、彼女自身の
体験に基いた上記のような「神秘体験Aと神秘体験Bとの対立構造」
が確立していたと考えられる。
そうでなくては、これ以降の彼女の記述が理解できなくなるからだ。
少なくとも、「十字架の道」と「魂の純化のステップ」を理解してい
たものの、納得はしていなかったにちがいない。
13 もしも神のご慈悲によって、これらの苦悩がこうい
うふう に続きますなら、私は、ついにはそこで生命を失う
に至ると思います。事実、それは、わたしの考えでは、死
を与えるに足りるほど激烈です。けれどたぶん、私はこの
お恵みに価しないでしょう。その時、私の望みのすべては
死ぬことで、もう煉獄のことも、私を地獄に価するものと
させた私の大きな罪を思いだしません。神を見たいこの熱
い望みは、私にほかのいっさいを忘れさせます。この砂漠、
この孤独は、地上のどんな伴侶よりも、霊魂にとって魅力
があります。もし何ものか彼を慰めることができるとすれ
ば、この苦しみを経験した霊魂たちとともに語り合うこと
でしょう。いくら嘆いても、結局だれも信じてくれないよ
うに思えるのですから。 (自20-13)
その瞬間に私の感じる欲望はただひとつ、それは「死ぬ」ことであ
る、と彼女は断言する。「死にたい」と言っているのである。
自殺することは、永久に地獄につながれることとキリスト教は規定
している。私は地獄に永久につながれることでもかまわない、また、
罪一等を減じられたとして、煉獄につながれることになるのかもしれ
ない、それでも私は後悔しない、と彼女ははっきり述べる。
このような行動を採る私でも、それでも救ってくださる「神」を私
は切望する。なぜなら、いまこの状態が私という個体の本質なのであ
るから、……と彼女は主張する。
何度も繰り返し経験し、それを吟味した結果、彼女は自ら到達した
自己の本質ともいえる神秘体験Bを、「虚妄として否定できない」と
断言するにいたる。
14 彼をまた苦しめること、それは、この苦しみがあま
りにも激しいので、もうほかの場合のように孤独を望まな
くなることです。それかと言って、自分の嘆きを語りうる
人でないかぎり、だれともいっしょにいたくありません。
彼は、もう首になわをかけられて、まさに首を絞められよ
うとしながら、もう一度息をしようとする人のようです。
この伴侶の望みは、私どもの本性の弱さから来るように思
われます。なぜなら、この苦しみは、私どもをほんとうに
死の危険におきますから。 (自20-14)
画題:Vincent van Gogh
"Wheatfield with Crows",
1890, Amsterdam,
Van Gogh Museum
Gardens of the Sunlight,
http://art.koti.com.pl/vangogh
より画像入手。
そこには吸い込まれる感覚、
吸引力が働いている。
道は見える。
先は見えないが
それは
うねるように続く。
一歩踏み出しさえすれば
よいのだ。