彼女はこのような局面にいたり、人間の本質を正確に記述した。
人間とは、
彼はいわば、天と地との間に十字架につけられていて、その苦
しみのなかで、どちらからも助けを受けません。 (自20-11)
という存在だと彼女は断言する。
これこそキリストの本質を、ものの見事に言い当てている言葉だと
筆者には思われるが、いかがであろうか。
アヴィラのテレサという十六世紀スペインの修道女は、
1515年、スペインのアヴィラで生まれ、
1536年、アヴィラ市外のご託身修道院に入り、
1540年、重病の後、大誓願を立て、
1554年、聖なる恩寵に接して喜び、
その後まもなく、多分1555年に、魂の迷路に入った。
彼女の魂は前にもまして再び混迷し、行く先が定まらず、苦痛が幾重にも彼女を囲繞(いにょう)し、彼女を苛む。
このような事態が生じたとき、人間の悩みはその頂点に達するもののようで、
40歳のテレサは、「なんじの神はいずこにましますか」という聖書
の詩篇41の言葉を思いおこし、
25歳のゲーテは、「わが神! わが神! なんぞわれを捨てたまい
しや」と叫び、
28歳のウイリアム・ジェームズは、「永久(とこしえ)にいます神
は、わが避所(かくれどころ)なり……」「すべて労する者、重荷を
負う者、われに来(きた)れ……」「われは復活(よみがえり)なり
、生命(いのち)なり……」などという聖書の言葉に縋った。
画題:Giovanni Bellini
"The Dead
Christ Supported by Two Angels"
Museo Correr, Venice
"The Museo
Correr in Venice"
Electa, Milan 1997
キリストという人は、
神秘体験Aに接して
その永遠性を誇るものではなく、
神秘体験Bに接したときの
最後の拠りどころを提供する
「場所の提供者」であるような気がする。
間違っているだろうか?