あるいは次のように説明できるかもしれない。

  人間は生れるときはひとりであり、死ぬときもまたひとりである。
ここには例外
というものがない。生れたときは、母親がいた。だから
厳密な意味でひとりではな
かった。死ぬときはそれこそ「ひとり」な
のである。死に同伴者はありえない。

 日本では昔は、このような状況を「三途の川を渡る」と表現した。
橋を渡るのか
、浅瀬を渡るのか、あるいは深みを渡るのか、それには
個人差がある。だが、つね
に「ひとり」である。

 ひとりではとても渡ることのできない能力不足の幼児の場合にはど
うするか、そ
こにわれわれ日本人は地蔵菩薩を考え出した。幼い子供
は、ひとりでは渡りきるこ
とが不可能だから、地蔵菩薩が現われて、
裳裾のなかに隠して一緒に渡ってくださ
るのだ。

 このように死に直面したとき、私たちは逃れることのできない絶対
的な孤独を経
験する。

 この感覚だ。それは人間にとって本質的なものだ、とテレサは説明
する。

三 途 の 川−孤 独 の 望 み

 この項以降、テレサの筆は精緻の程度を増していく。その表現はま
さに神懸り的、天才的である。ゆっくりと彼女の述べる言葉を聞いて
いこう。第二十章
10より始める。

 10 そこから、孤独の望みと悩みが増大しま
すが、その孤独の
なかで霊魂は、このように微
妙な、また、心の奥底まで浸み透る悩みに捕わ
れています。このように、この砂漠のなかに運
びいれられ、ダヴィド王のように真実にこう言
うことができます。「私は目ざめていて、屋根
に独りいる雀のようになった」
(詩篇101) ダヴ
ィドはこう申しました時、この孤独のなかにい
たのだと私は
思います。彼は聖人でしたから、
もっとずっと激しくこれを感じるお恵みを神か
ら受けたことでしょう。私自身これを体験いた
します時、この句を思いだします。そして彼の
言っていることが私のうちにも行われているよ
うに思われます。ほかの人々が、そして特にこ
のような人々が、こういう孤独のきびしさを経
験したのを見るのは、私にとって慰めです。こ
うして、霊魂はもう自分のうちにおりません。
自分のいちばん高い部分、自分の絶頂に、すべ
ての被造物の上に立っております。彼はさらに
もっと高いところに住んでいて、自分のいちば
ん高い部分を越えてその上にいるかのようです。

画題:Gustave Moreau (1826-98)
        "La Parque et L'ange de la Mort"
          『
パルクと死の天使』
         年代不明
         Musee Moreau, Paris
      カンヴァス世界の名画13
        『ムンクとルドン』−世紀末の幻想−
         井上靖/高階秀爾、中央公論社、1975

         パルクは、
      運命を司る
      ギリシャの女神モイラ。

    オレンジ色の満月が空に輝く。
      馬上の大天使が女神とともに
      死者の霊魂を守護する

    と、西澤信彌は説明する。

 このような経験を今まで受けたことのない人は幸い
だ。だが、あなたが感受性の高い人ならば、あなたの
青春時代に初めての片想いに破れたときの心のありさ
まを思い出されることだろう。あるいはあなたが、と
ても仲の良かった配偶者を亡くした場合に、直面され
る心の状態を想定できるかもしれない。


  それは自分の魂の隅々まで浸み透る孤独の心だと、
テレサは説明する。

 つまり、三途の川のほとりにたたずむテレサを、
テレサ自身が高い場所から照覧しているのである。
すさまじい孤独にじっと堪えて……。

 それは、死出の旅なのかもしれない。
 死出立(しにでたち)なのだ。