テレサは念祷を続けた結果、1554年、聖なる恩寵
に接することができた。
それは、突然にやってくる性質のもので、それが
訪れたとき、思考・記憶などの諸能力は停止してし
まい、そこに彼女が見るものは、光であり、炎であ
り、善であり、神であった。それは短時間しか続か
なかったが、その余韻は残り、かつその内容は私自
身の本質を体現しているものだと感じ、昔から伝え
られている三位一体の意味が、その体験の後ではよ
く理解できるようになった。そしてその体験の直後、
喜びが湧きあがった。
これらの特徴よりして、これは神秘体験Aそのも
のである、と筆者には思われるのだが、この神秘体
験Aの到来ののち、彼女に魂の危機が訪れる。それ
を彼女は「悩み」と表現した。
画題:Arnold Böcklin (1827-1901)
Die Insel der Toten/死の島
1880
Kunstmuseum, Basel
カンヴァス世界の名画13
『ムンクとルドン』−世紀末の幻想−
井上靖/高階秀爾、中央公論社、1975
ナポリ湾の西、イスキア島。
ベックリンの目に映った
イスキア島は、
死の映像をたたえている。
夫君に死別したベルナ夫人
の依頼により制作された
と、西澤信彌は説明する。
読者は不審に思われるだろう。
なにゆえに
恍惚の明るすぎる世界から
このような暗い世界へと
突然に一変するのか?
この点については、
テレサも
理由がわかっていない。
だが、わからないままに
彼女はこころの探検を続け、
その結果を
詳細残らず書きとめた。
それは、自叙伝第二十章9以降にこと細かに描き出されている。
読者のために、その経験の特徴と、該当する部分の抜書きを
作って見た。
(経験の受動性)
それは自分では起こし得ず、また、それを感じる時には
遠ざけることもできないものです。 (自20-9)
(悩みの度合いは時により強弱がある)
この悩みは時として深く、時としてそれほどでもありま
せん。 (自20-9)
(それは一瞬にして彼女の全霊を把握する)
たびたび、霊魂はどのようにして起こったかわからない
激しい望みに突然捕らわれます。それは一瞬間で、霊魂に
すっかり浸透し、これを極度に悩ませますので、霊魂は自
分とすべての被造物のはるか上に超越いたします。
(自20-9)
(筆者注:聖なる恩寵(神秘体験A)と同様、「超越
的」であると彼女が報告している点に注目
したい。)
(全ての望みが消え去り、孤独となる)
この時神は、この霊魂をこの世のすべてのことに、すっ
かり無関心にしておしまいになるので、いくら努力しても、
自分の伴侶(とも)となるいかなるものをも見いだすこと
ができないように思われます。 (自20-9)
(そして、死を望む)
それに霊魂は伴侶(とも)を欲(のぞ)まず、この孤独
のうちに死ぬことにのみあこがれます。いくら人が話かけ
ても、また自分で話そうとしてもむだで、すべては骨折り
損です。 (自20-9)
この体験を得たあとで、彼女はこの体験にたいする彼女の意
見をこう付け加える。
1. これが現実のものであると理解できるのは、同体験をし
た人でなくては無理だろう。(言葉での伝達は無理だろう)
2. これはきっと神様が、聖なる恩寵(神秘体験A)がない
場合にはこうなるのだよと私に教えるために見せて下さっ
たのにちがいない。(これもまた、恩寵という神様の思し
召しにちがいない) (以上、自20-9)
以上で読者は、上記の「悩み」の本質が、聖なる恩寵(神秘
体験A)と次の点で見事に符合していることに気づかれたので
はなかろうか。
− 経験の受動性
− 受信の感度は時によって変化する。
− 魂を一瞬にして把握する。
− 超越的である。
− この体験は既経験者でなければ理解できない、と感じる。
そして、「悩み」の内容は、神秘経験Aのそれとまるで正反対
である。
どうでもよいことかも知れぬが、自叙伝第二十章9のなかで、
「(この経験は)もっと先になって、お話する幻視や啓示のどれ
よりもあとのことで」と書いてあるが、このフレーズは後世に誰
かが加筆したと思われる。順序としては、聖なる恩寵、悩み、幻
視、啓示、と続くほうが自然であるし、多数の体験者の報告がこ
の見方を支えてくれている。