彼が、世俗的価値の基準と見なされるべき裁判官に対して語っていることは、次のようにまとめられよう。

プ ラ ト ン の 瑕 瑾

 「プラトンに瑕瑾(かきん)はあるのか」と問われれば、「瑕瑾はある」と答えることにしている。

 「どこが?」と聞かれたら、「たった一か所」と答えることにしている。

 「それは何?」と聞かれたら、「ソクラテスとの関係において」と答えることにしている。

 ご承知のようにプラトンは20歳のときに、63歳のソクラテスと知合い、彼の弟子となった。

 プラトンが理解できなかったのは、ソクラテスがその必要のあるとき、必ず相談することにしていたダイモーンの正体である。では、ダイモーンとは何なのか。

 いささか長くなるが、その部分を、田中美知太郎訳、プラトン全集1、『ソクラテスの弁明』(岩波書店)から引用することにしよう。

 死刑の判決を受けたときのコアの部分である。

画題:ラファエロ
      「アテネの学校」
      (部分、ソクラテス−右側)

         『ヴァティカンにおける
       ミケランジェロとラファエロ』
       
Monumenti, Musei e Gallerie Pontificie,
           1978

− 私は私の魂のなかに、世俗的な価値とは異なった、独立的
 な判断基準を持っている。

− それを、私は「ダイモーン」と呼ぶ。

− 私が自分の行動を起こすとき、私はかならず、自分の心の
 なかにあるダイモーンと相談することにしている。

− ダイモーンはきわめて神経質であって、ダイモーンと厳密
 な意味でほんのわずかの差異でもあるならば、ただちに私の
 行動を阻止してしまうのが通例である。

− ところが今回の事件が起り、私は糾弾される立場に立った。

− 裁判所に来れば、私は死刑判決を受けるであろうことを私
 は認識していた。

− これは世間的な意味で、自分に起りうる厄災のうちでも最
 大のものである。

− このような場合、逃げようと思えば逃げられることは、皆
 さんもご存知の通りである。

− だから、本日裁判所に出頭することは、自分にとって自分
 を殺すこと、自殺行為と同じことである。

− ところがダイモーンは、つまり私の魂は、今朝家を出ると
 きも、法廷に入るときも、弁論の途中でも、一切異議を唱え
 なかった。

− つまり、端的に言えば、ダイモーンは、私が自殺行為を採
 ることを、あなた方が考えているように「災悪」とは考えて
 おらず、逆に善いことだと、それこそ「善」だと考えている。

− だからといって、裁判官諸君を非難しているのではない。
 それは価値観の問題なのだ。世俗的な価値とは逆の価値が在
 りうる、と私の魂は主張しているのだ。

 どう読んでみても、彼の弁明は、上述のよう
であるとしか読みとれない。

 ソクラテスが、当時の社会基準とそれをジャ
ッジする裁判官の立場を尊重し、彼らの判断を
最上の価値として甘受し、したがって死刑判決
を「善」と考え、従容として悦んで毒薬を呑む、とは読むことができない。

 ソクラテスが相談相手としていたこのダイモ
ーンについて、プラトンは終生理解できず、そ
のため、プラトンはソクラテスがひそかに話し
をしたというダイモーンの本質を明らかにしな
かった。

 それが善霊なのか、はたまた悪霊だったのか、
それとも善霊と悪霊の混合物だったのか、プラ
トンは答えを出していない。もしかしたらプラ
トンは若かったため、そこまで深く考えなかっ
たのかもしれない。

 善霊のみに固執したプラトンのみならず、そ
の後の西洋世界の文化人は、いまだにこの点に
つき解答を出していないように見受ける。

 ひとりスペインのテレサだけが、この領域に
踏み込み、正確な報告書を作成した、と筆者に
は思われる。

 では、テレサの実地踏査の結果はいかがだっ
たのか、これから詳述したい。

 それはつまり、裁判官諸君――というのは、あなたがたこそわたしが、正しい呼び方で、裁判官と呼べる人たちなのだ――、わたしに妙なことが起こったのです。というのは、わたしにいつも起る例の神(ダイモーン)のお告げというものは、これまでの全生涯を通じて、いつもたいへん数しげくあらわれて、ごく些細なことについても、わたしの行なおうとしていることが、適当でない場合には、反対したものなのです。ところが今度、わたしの身に起ったことは、諸君も親しく見て、知っておられるとおりのことでして、これこそ災悪の最大なるものと、ひとが考えるかもしれないことですし、一般にそう認められていることなのです。ところが、あおのわたしに対して、朝、家を出て来る時にも、神の例の合図は、反対しなかったのです。また、ここにやって来て、この法廷にはいろうとした時にも、反対しなかったし、弁論の途中でも、わたしが何かを言おうとしている、どのような場合にも、反対しなかったのです。ところが、他の場合に、話をしていると、それこそほうぼうで、わたしの話を、それは途中からさし止めたものなのです。ところが今度は、いまの事件に関するかぎり、行動においても、言論においても、わたしは反対を受けないでしまったのです。それなら、何が原因なのでしょうか。わたしの考えていることを、あなたがたにわたしはお話しよう。つまり今度の出来事は、どうもわたしにとっては、善いことだったらしいのです。そしてもしわれわれが、死ぬことは災悪だと思っているのなら、そういうわれわれすべての考えは、どうしても間違いでなければなりません。何よりも、わたしの身に起ったことが、それの大きな証拠です。なぜなら、例の神の合図が、わたしに反対しなかったということは、わたしのまさにしようとしていたことが、何かわたしのために善いものでなかったなら、どんなにしても、起りえないことだったのです