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Odilon Redon (1840-1916)
“Saint George et le Dragon”1907(1910)
Wallraf-Richartz Museum, Köln

   聖ジョルジュは殉教した4世紀の聖者。その生涯についてはなにも知られていないが、この聖者に対する崇拝は、かってきわめてポピュラーであった。なかでも馬にまたがった聖ジョルジュが竜を退治している姿――それは異教徒に対する聖ジョルジュの勝利を象徴するものであろうとされている――は、ウッチェロをはじめルネサンス時代の絵画にしばしばとりあげられている。

『現代世界美術全集10 ルドン/ルソー』
集英社
1971

 純粋経験Bの世界は苦痛の世界である。

 人間は苦痛を好まぬ。

 苦痛を避けたがる。

 その苦痛があきらかに自分に根ざしていること
を知っていても、出来ることなれば目をつむって
見て見ぬふりをしていたい。

 わけても怪物の棲む暗黒大陸に上陸することは
拒否したい。

 しかし、残っている唯一の未開拓地はアフリカ
なのであるから、思い切ってあの明るい
A領域を
一旦捨てるのである。
A領域を捨ててアフリカに上
陸しなければ、実態は分からぬのだ。そして価値
の逆転も実現しない。

 A領域を一旦捨ててB領域に飛び込むのである。

 松篁が引用した釈迦本生譚を想い起して貰いた
い。「身を投げて」「投身自殺をして」初めて
「寂滅為楽」となるのである。もちろんこの場合
には「寂滅を以って楽しみと為す」と解釈し、そ
のときは価値観が逆転し、死ぬことが楽しみとな
るのです・・・・と読むのだ。

 そうして初めてB領域もまたこの私自身だと悟
ることができる。

 追い求めてきた真理が、まさかこのような苦痛の極限状態のなか
に在るとは、誰も空想さえしない。ゲーテが『若き・・・・悩み』
522日付で述べるように、


               具象化されたもの、はた生きて働く力よりも、むしろ
         予感とおぼろげな希求の
うちに、いつもながらわが世界
         がある。ここにあってこそ、万有はわが感覚の前
に漂い、
         私は夢みつつこの世界にむかってほほ笑みかける。


 すなわち真理とは、夢みるように暖かい存在で、一旦それに到達
すれば私を包み込んでくれる包容力があり、ほほ笑みを伴うべき実
在感であるとの仮想を持ち続けるときには、苦痛を核とする
Bが、
求めていたほんものの真理そのものであるとの認識にはなかなかに
到達しないものなのだ。