微 弱 な 電 波

 純粋経験Bは、通常の人間の内面生活で感受できるもっとも微弱な電波であ
る。


 私たちはいままで反抗的哲学者の経験を通して、純粋経験Bと称する内的経
験を拡大鏡を用いて観察してきた。それは調べれば調べるほど、仏陀の説かれ
「悪魔とその軍勢」に似ている。


 しかし、現実の生活では、このBはほとんど滅多に姿を現わさない。Bが姿
を現わすにはきっかけが必要なのだ。


 前述の細川亮一は九州大学院生田中篤の経験談を引用する。


               全く観光地化されていない真暗な鍾乳洞で、T君は電燈を落した。
         落した電燈を
手探りで拾い上げ再び明りをつけるまでの間、T君は
         今までに体験したことのない
怖さを感じた。

               「その恐怖とは一瞬、足もとがすくわれる感じで、さらにその瞬
         間このまま自
分が消え入ってしまいそうな感じなのです。あたかも、
         点のように自分の存在が
    収縮していくかのような感じなのです。
         それで、いても立ってもいられなくなり、
思わず大きな声をあげて
         しまいました。」

                    (細川亮一『現代哲学の冒険「死」恐れと驚き』岩波書店、1991

 このような突然の思わざる経験、あるいは手痛い失恋、身内の死、あるいは
丹精こめた事業の失敗、あるいは信じていた人から受けた裏切り、サラリーマ
ンの場合では定年前の閑職化、甚だしい経済的困窮、これらをきっかけとして、
おぼろげにゆっくりと、あるいは急激に
Bは立ち上がるのである。


 このような我々の現実生活にnegativeに働く要素Bをその存立基盤として成立
する哲学は、基本的にすべての人間の行動を理解できるという意味で人にはや
さしいが、人を引っ張っていく力強さに欠ける欠点がある。それは「弱い哲学」
なのである。


 幾多郎に「矛盾は自らの内で一つの体系をなし得ぬから、これは夢の如きも
ので、実在とは信ぜぬ」と言い切られると、「そうかなあ」と思ってしまうほ
ど、
Bから発信される電波は弱いのである。


 かといって、純粋経験Bをあなどってはいけない。いろいろのケースでBは内
界と外界に対して異常な力を発揮する。

画題:
Alphonse Mucha(1860-1939)
スラブ叙事詩(第一図) 
先史時代のスラブ民族
(部分)
1911
カンヴァスにテンペラと油彩
「アール・ヌーヴォーの世界1、
               ミュシャとパリ」

学習研究社
1987

 ゲーテが晩年に著した『詩と真実』から引用しよう。



               しかし、この魔神的なものが最も怖ろしい姿で現はれるのは、
         それが一人の人
間のうちに壓倒的な威力を振ふ場合である。かう
         した例は私の生涯に於ても、或
は身邊に、或は遠くから、幾度か
         觀察することができた。この種の人間は必ずし
も智力や才分に於
         て人に秀でた者とはかぎらず、また人情に篤い點で人に勝つて

         ることも稀である。けれども、彼らからは異常な力が發する。さ
         うして、
信ずべからざる威力をあらゆる生物の上に、いな、四大
         の上にまで及ぼし、その
影響がどこまで及ぶかは、何人も言ふこ
         とができない。あらゆる道徳力を併せて
當つても、その敵ではな
         い。理知に明るい部類の人間が彼らを「欺かれた者」、ま
たは
         「人を欺く者」として指弾しようとしても無uである。大衆は彼
         らの方へ惹
きつけられる。同時代の者で彼らに匹敵する者は稀で
         あるか、もしくは皆無であ
る。さうして彼らは宇宙にたいしてさ
         へ戰を挑むが、彼らにうち克つことのでき
るのは、ただ宇宙だけ
         である。さうして、おそらくこのやうな觀察から、「~を措
いて
         何者も~に抗ふを得ず」といふあの奇異な驚くべき箴言が生じた
         のであらう。

                                                                
(小牧健夫訳、岩波文庫)

 ゲーテは純粋経験Bの本質を看破することは避けたが、その暗い本質を正
体の知れぬ謎として残し、これを人間に共通する魔~的なものとして表現す
ることとしたのである。

 何故にそれが存在するのか、その理由はいまでもゲーテにはわからぬ。が、
魔~的なものを操作できる人間がこの世の中に出現し、その人間が人間の体内
にある魔神的なものへの呼びかけを開始すると、まるで大衆は、催眠術で予め
意識の下に命令を刻みおかれた人形のように、正確無比に命令を実行し始める
のである。催眠術から覚めた人間が、催眠術にかかって行動していた間の記憶
を喪失しているように、実行本人には罪の意識は残らない。


 催眠術師の一人とは、ゲーテも幾度か面識のあるナポレオンだと思うのだが、
それにしてもまるでゲーテは、十八世紀にして二十世紀に自国に生じた凶暴な
殺戮を予言しているかのようだ。


 人間は、Bを自らの存在を構成する二つの極の一極であるとの最終認識に到
達しないかぎり、私の
Aは正しいから、したがって私が充分な正当性を持ち合
わせている、と主張するものなのである。この主張を繰返す限り、殺戮は絶え
ない。こっそり隠れた
Bは外界に対して虐待、暴力、殺戮となって姿を現す。


 国家的な経済的困窮と疲弊に見舞われた場合、それは国民すべてを巻き込む
最大規模の残虐行為へと発展する。
B認識の欠けたAは、それでも尚且つみずか
らの正当性を主張し続ける。諸君、あなたの国にも過去そのような記憶がある
のではないだろうか。


 過去、現象世界にいろいろと現出した事象を考えるとき、我々は、正確に自
らの体内にある能動的な
Bを、それが実在すると認識して、その時々の重さを
秤り、共生せねばならぬ。