この詩にたいする康四郎の理解は、


 すでにブッダは修行を重ねて禅定を深めており、二人の
師に就いてもその境地は真の涅槃
(ねはん)ではないといい、
さらに命懸けの苦行を経た後、菩提樹の下で入定したので
ある。その大爆発は、われわれの場合と桁が違うことはい
うまでもないであろう。それが静まって自分に返ったとき、
初めて口をついて出たのが初夜の偈である。
 ブッダは、その大爆発の目覚めを「ダンマが顕わになる」
と表現された。そのダンマについてブッダは、何の説明も
つけておられない。説明の仕様がないのである。まったく
超越的なもの、まったく形のないもの、そのものが全人格
体に顕わになったのである。ダンマとは形なきいのちとい
う外はない。ダンマはパーリ語、サンスクリット語ではダ
ルマ、漢字では法と訳され、原始経典では多くの意味に使
われているが、ここにいうダンマは、そのすべての意味の
根源である。

                                                                 
(
同上)

 引き続き玉城康四郎の説明を拝聴することとしよう。


 そのダンマがブッダの全人格体に顕わになったとき、一
切の疑惑が解消し、縁起の法が知られてきた。それが初夜
の偈である。さらに禅定を深めているうちに、ダンマはブ
ッダの人格体に滲透し、中夜になると、その縁もまた消滅
する。そして後夜に至ると、一切の煩悩
(悪魔の軍隊)がこ
とごとく粉砕されて、太陽が虚空を照らすように、ダンマ
がブッダの全人格体を通徹して、全宇宙を照らし抜いたさ
まがうかがわれる。つまり、三つの偈において、ダンマが
ブッダに顕わになり、滲透し、通徹していく、そのダンマ
の軌跡を見ることができる。
 私が初めてこのウダーナに触れたとき、ブッダの目覚め
の最初の一句、すなわち、形なきいのちがブッダの全人格
体に顕わになったことと、私自身のかっての大爆発とが、
相照応し、感応道交
(かんのうどうこう)し、私は初めて、
なるほどと頷
(うなず)くことができた。つまり、私の爆発
の仕組みは「形なきいのちが全人格体に顕わになる」こと
だったのである。しかもそれと同時に、なぜ爆発の後にあ
と戻りするかという理由も分かってきた。それはきわめて
微妙な問題であるが、そのとき私は、これで目覚めた、安
心だと思う、その自分は、すでに顕わになったダンマから
外へ出ているのであり、いいかえれば、その自分は顕わに
なっていないのである。あと戻りしたと思うのは当然であ
ろう。
 その後、経典を調べているうちに、私とまったく同じ足
跡を踏みつづけていたゴーディカというブッダの弟子がい
ることが分かった。かれは懸命に修行して解脱に達したが、
やがてあと戻りして元の木阿弥になる。これではならぬと、
さらに努力して目覚めるが、やがてまたあと戻りする。こ
のようにして、三度、四度、五度、六度、そして七度目に
解脱に達したとき、もうあと戻りしないように、みずから
剣をとって命を絶った。自殺はサンガにおいてきびしく戒
められているが、ブッダは、ゴーディカは涅槃に入った、
といって賞賛された。
 ゴーディカは、何度もあと戻りしたとき、それをブッダ
に告白したのか、しなかったのか、またブッダは、それに
ついて教えたのか、教えなかったのか、それについての記
録がないから、分からない。しかし、かれが自殺したとき、
涅槃に入ったと、賞賛されたことは確かである。
                                                                 (同上)

ウ ダ ー ナ の 三 つ の 偈

 玉城康四郎は、海外留学より帰国後も坐禅を継続するかたわら、仏典の研究を行ったが、

 禅定においては、相変らず一進一退、一開一閉が続いていた或る日、私は初めてブッダの解脱の光景に出会ったのである。それは『ウダーナ』(『自説経』)に記されている三つの偈()()である。



 初夜
(しょや)の偈

   実にダンマが、熱心に入定(にゅうじょう)している修行者に顕(あら)わになるとき、そのとき、かれの一切の疑惑は消失する。というのは、かれは縁起の法を知っているから。

 中夜(ちゅうや)の偈

   実にダンマが、熱心に入定している修行者に顕わになるとき、そのとき、かれの一切の疑惑は消失する。というのは、かれはもろもろの縁の消滅を知ったのであるから。

 後夜(ごや)の偈

   実にダンマが、熱心に入定している修行者に顕わになるとき、かれは悪魔の軍隊を粉砕して安立している。あたかも太陽が虚空を照らすごとくである。

 初夜は日没であり、中夜は夜中であり、後夜は明け方である。日没から夜中へ、夜中から明け方にかけて、時間を経つつ三つの詩が歌われている。修行者とはゴータマ(ブッダの俗名)自身である。すなわち「ダンマが入定(禅定に入ること)しているゴータマ自身に顕わになる」というのが、解脱の原形である。                                (同上)

画題:ボルジア絵文書、
      古典期 マヤ文化 
1400年頃
      イチジクの木の皮 彩色

         マドリード、
      アメリカ博物館

青柳正規
     『世界美術大全集』第一巻 
     小学館 
1995

これは絵なのか、文書なのか、
        いまは誰にもわからない。

しかし、ひとは、
        難解さがあればあるほど
        それを乗り越えての理解を求める。

        ロゼッタストーンのような
        併記ギリシャ語がないから
        いまは解けないだけなのだ。