上記は玉城康四郎の見解であるが、筆者が意訳すれば、次の通りとなる。


探求の道は、無明
(むみょう)の薄暗がりからはじまる。

初めの悟り

 修行者が精魂込めて行(ぎょう)ずるときに、それは現れる。
 そのときに一切の疑惑は消滅する。
 というのも、そのとき、修行者の身体は「生命」そのものになるか
 らだ。

二番目の悟り

 修行者が精魂込めて行(ぎょう)ずるときに、それは現れる。
 そのときに一切の疑惑は消滅する。
 というのも、そのとき、修行者の身体は「死」そのものになるから
 だ。

三番目の悟り

 修行者が精魂込めて行(ぎょう)ずるときに、それは現れる。
 そのときに透明な世界観が現れる。
 というのも、そのとき、修行者は生の本質も死の本質も見極めてし
 まっているから、もはや動ずるところがなくなるからだ。

こうして夜が明ける。



 筆者の意訳があたっているかどうかはわからない。それが当たって
いようと外れていようと、問題にはならない。筆者が本論文で顕わそ
うとしている意図はまったく別のところにあるからだ。

三 つ の 偈 の 解 釈

 玉城康四郎の意図するところは明らかである。

− 釈迦の説かれる涅槃の境地は、十二部経のうち、
   憂陀那
(ウダーナ)と音写されるUdana(自説経)の中
   に含まれている三つの偈
(初夜の偈、中夜の偈、後
   夜の偈
)に言い尽くされていると考える。

− 三つの偈のなかで使われているダンマとは、パー
   リ語、サンスクリット語ではダルマ、漢字では法と
   訳されているが、私の解釈では生命の根源である超
   越的な「形なきいのち」と訳されるべきものであ
   る。ブッダはこのダンマにつき正確な定義を与えて
   おられない。ブッダはダンマの正体については、こ
   の三つの偈から推察せよと命じておられるのである。

− 私(玉城康四郎)25歳のとき、東大図書館で体験
   した大爆発
(すなわち筆者の用語で「神秘体験A)
     は、初夜の偈に相当するダンマであることは確信
   をもって言える。

− ところが釈迦は、プラトンのイデア、テレサの一
   致の念祷、白隠の見性は、「それは初夜の段階のダ
   ンマであって、第一段階にすぎない。それに引き続
   き、ダンマは中夜、後夜の二段階の経験を受けるも
   のなのだ」と言っているのだ。

− 少なくともこう考えると、魂の大爆発という神秘
   体験
Aの後、10日程度で元の木阿弥になってしまう
   という事実は、釈迦の説法通りだと、うまく説明で
   きる。

− ゴーディカというブッダの弟子は、私と同じ体験
   をし、わたしと同じく元の木阿弥に逆戻りしたこと
   が経典に記されている。ゴーディカは神秘体験
A
   終局の真理であると考えたので、元の木阿弥になる
   ことを嫌い、懸命に修行を重ね、常に大爆発の状態
   に居続けられるよう努力したが失敗した。そこで世
   をはかなんで自殺した。

− ところがなんと、そのときブッダは禁則を犯して
   自殺したゴーディカを「涅槃に入った」といって賞
   賛したのだ。なぜだろうか。
   これが私の疑問だ。

画題:Paul Klee (1879-1940)
          "Der Niesen",
     1915
          Hermann und Margrit Rupf-Stiftung,
          Kunstmuseum Bern

   カンヴァス世界の名画23
         『クレー』
         中央公論社 1975

  ニーセン山は、
      クレーの故郷ベルンより遠くない
   トゥーン湖の西側に聳える
      
2600メートルを越す高峰。

    夏の黄昏どき、星と三日月が暗い
      夜の帳を開く、
      と西田秀穂は説明する。

    Paul Kleeは、
   これから開かれる夜の物語の
      クレーを主役とする
      形而上学オペラの
   書割をつくったのか。


なお、
釈 玄喜 氏がパーリ仏典の『ウダーナ』の翻訳
インターネットで公開されています。
第T章第1-3節を参照乞う。