その後、康四郎は昭和17105日召集を受けて入隊し、士官学校を出て、熊本、松山の部隊から熊本に帰還した。

 昭和224月より熊本語学専門学校に哲学とドイツ語の教師として勤めたのち、昭和264月ふたたび大学院に戻り、ドイツ哲学を学んだ。

 昭和294月、東洋大学仏教学科助教授となり、天台学に専念する一方、坐禅を継続した。

 昭和307月から8月にかけて大阪府池田の断食寮で二週間の断食にはいり、「無意識の瞑想」体験を行う。だが、この体験は彼になんらの意義ある印銘を与えなかったように思われる。

 昭和344月、東京大学文学部インド哲学科の助教授となり、中国仏教・日本仏教を担当し、仏教概論を講義した。このとき、天台実相観に関する学位論文『心把捉の展開』を刊行した。

 昭和35年より、安谷白雲老師について参禅する。このとき、玉城康四郎は「再見性」という言葉が存在することを知る。見性とは、

    自己の本来の心性を徹見すること。

と『広辞苑』にあるが、再見性とは、もう一度全く同じ見性体験を繰り返すことか、あるいはいったん見性したあとで、別の種類の心性を見ることであろうか。この点につき康四郎はなにも説明していないが、すでに二度もまったく同じ体験を図書館で経験した康四郎であるから、白雲老師が示唆されている再見性とは、後者の部類にちがいない。

 康四郎は安谷白雲老師より見性を認可されたが、さらに進んだ再見性の存在を示唆され、坐禅を継続するなかで、


 公案を解きつづけていく満足感の、奥底ふかい無意識のなかに、未解決のどす黒い我塊(がかい)の蟠居(ばんきょ)しているのに愕然としたのである。もしこのまま公案を続けていくならば、この未解決の我塊はついに放置されたままになってしまうであろう。私はこの経緯を安谷老師に詳しく述べ、老師は快く承認された。                                                             (同上)


 こうして玉城康四郎は、彼が体験した神秘体験
Aは、仏陀の提唱する大悟ではないと断定し、我執を捨て去った再見性の境地を求めてブッダの禅性を学ぶことを決意した。46歳頃のことであった。

 昭和40年、康四郎は海外留学に出かけ、ヨーロッパ、アメリカを視察し、

              ハイデガー以降のドイツ哲学
              ユングの深層心理学

などを学び、見聞を広めた。

再 見 性

画題:Frederick McCubbin
          "Down on his Luck" 1889

         The Western Australia Art Gallery,
         Perth

         "Great Australian Paintings"
         Lansdowne Press Pty Ltd, 1971

人生は永い旅路のようなもの
     である。

        ひとは、あらん限りの努力を
     払うが、

        時折襲うこの倦怠感ははたし
     てなにか?


        McCubbin
Melbourne近郊で描
     いたこの絵は、

        彼の友人Mr. Louis Abrahams
     モデルとしている。

       人生とは「賭け」ではなかろうか、
       
と彼は自問する。