現在もそうなのであるが、昨今の日本の禅寺
では、この大爆発のことを「見性
(けんしょう)
と称する。

 むろんその経験内容には個人差があり、テレ
サのように「急激に大きくなる烈火」と感じら
れる場合もあり、林武のように「天地を貫く大
円柱」となる場合もある。具体的な印象は個人
によって差があるのだが、それらには共通する
特徴があり、その特徴を筆者は「玉城康四郎の

A体験の特徴」の項で九箇条にわたり列記して
おいた。いずれもその瞬間には魂が溶けてしま
って、その直後に激しい悦びの感情をおぼえ、
感受性の高い人の場合は思わずうれし泣きして
しまう。

 したがって玉城康四郎の体験した見性とは、
明治
397月に日暮里の「両忘庵」で平塚らい
てうが体験した「見性」と同内容であり、同義
であるということができる。

 さて、平塚らいてうも見性の後、大疑団に逢
着してもがいたが、玉城康四郎もさすがに東京
帝国大学の学生だけあって、自分の心に生じた
疑惑を正確に記載し、疑いを疑いとして残し、
これを一生の課題とした。

 どこかの生臭坊主に、「それは見性である。
それが大悟というものである」と印可を受けて
寸心という法号をもらい、有頂天になって喜ぶ
人間とは人間の出来があまりにも違うのである。

 玉城康四郎がその当時師事していた円覚寺の
古川堯道老師も、棲悟宝岳
(せいごほうがく)
師も、康四郎の体験した大爆発体験にたいして

yesともnoとも話されなかったにちがいない。

見 性 の 定 義

 神秘体験Aの部では、玉城康四郎が青年のころ、人生とはなにか、どうして私は生まれたのか、私はいったい誰か、という大命題を心に抱いて煩悶されていたこと、引き続き25歳のとき、東京大学の図書館で「大爆発」という内的経験を二度にわたって体験されたことを検討した。

 ところが、「大爆発」の瞬間を過ぎて、

十日も経つとまったく元の木阿弥(もとのもくあみ)になってしまった。以前となんら変わることはない。煩悩も我執(がしゅう)もそのままである。そもそもあの体験は何であったのか。単なる幻想か、いやいや決してそうではない。爆発の事実を否定することはできない。しかしそのことをいかに詮索しても、現に煩悩、我執のままであることはどうしようもない。
                          (玉城康四郎『ダンマの顕現』大蔵出版)

という状態になってしまった。

画題:西山芳園
      「狐の嫁入り図」(部分) 
      江戸時代後期
(19世紀) 絹本著色 掛幅
   大英博物館蔵
     『秘蔵日本美術大観3大英博物館V』、
          講談社、1993

あれは
     夢か、
     現
(うつつ)か、
        単なる幻想か、

いやいや決してそうではない、

        と玉城康四郎は考える。