エドヴァルド・ムンク
『叫び』
エドヴァルド・ムンクは1863年12月12日、オスロの北方約100キロのリョーテンという土地で生まれた。お父さんは軍医、お母さんは地元の人だったようだ。
お母さんは五人の子を年子で次々と産み、程なく肺病で死亡した。ムンクが5歳のときであった。ムンクが14歳のときには、仲の好かった姉のソフィーが同じく肺病で死亡した。
家のなかは、彼が小さいときから、病気と、狂気と、死の雰囲気で充ちており、彼の言葉を借りれば「ゆりかごの上に悪魔の天使が舞っている」状態だった。
彼は、この雰囲気をカンバス上に描きだそうと努力した結果、22歳のとき、姉ソフィーの臨終の際の、死と対面した人間の姿を”The Sick Child”と題する絵に描き出すことに成功した。この絵はオスロの国立美術館に展覧されている。
画像:
Edvard Munch
"The Dead Mother and the Child"
1899
Oslo Kommunes Kunstsamlinger
Ragna Stang
"Edward Munch,-The Man and the Artist"
Gordon Fraser, London, 1979
実物を鑑賞されるとお分かり頂けようが
子供の黒い瞳のなかに「死」が映されている。
このような身内の死を、雰囲気までも描き切ったちょうどその頃、ムンク
は自らの体内に存在する死そのものを体験するに至った。それは論理的な必
然性なきまま、突然彼を直覚という形で襲いかかった。
「ある宵のこと、私は小道を歩いていた。片側は街、下はフィヨ
ルドであった。私は疲れをおぼえ、からだの調子はすぐれなかっ
た。私は立ち止まり、フィヨルドのむこうを見渡した。――太陽
が沈みかけるところで、雲は血のように赤く染まっていた。私は
自然を貫通する叫びを感じとった。実際、私は叫びを聞いたよう
に思えたのである。私はこの絵を描いた。本当の血のように雲を
描いた。色彩は悲鳴を発した。これが<生命のフリーズ>の中の
《叫び》になったのである」(サン=クルーの日記、1889年)。
(J.P. Hodin 著、湊典子訳『エドヴァルド・ムンク』
Parco出版社より)
The Scream(絶叫、あるいは、叫び)と題されたこの絵はオスロの国立美
術館に展覧されている。
画題:
Edvard Munch
"The Scream" 1893
Nasjonalgalleriet, Oslo
Ragna Stang
"Edward Munch,-The Man and the Artist"
Gordon Fraser, London 1979
ムンクが自分の身体の中に在る「死」と対面するに至った場所は、オスロ市
郊外の南東部のNordstrand(北浜)であり、絵の中には、現存する木製の柵、
右遠方にオスロ市と、スキーのジャンプ台のあるホルメンコーレン山が描きこ
まれている。だが、描かれている主体は純粋経験Bに直面して絶叫しているム
ンクの姿―自画像―である。ムンクはそのときの自分を骸骨以外には描きえな
かった。
ムンクの日記をすべて読んでみても、ムンクが「AなしのB」型人間であった
ことはあきらかである。また、直覚Bは、疲れ切った状態で(half dead with
fatigue)、出現したことも彼の日記から読み取れる。
彼にとって、この直覚が唯一の信じうる認識であったことは明白で、それが
故に、なんと驚くべきことに、彼はその後一生涯、この感覚にいつでも逆戻り
できるよう、自分の身体のコンディションを、疲れ切った状態に保つよう努め
たのである。