B探検家の採るべき選択肢

画題:
まったく本文の内容とはマッチしていないが、
当時の世間の風潮を垣間見るための画像。

小杉天外『魔風恋風』の単行本(春陽堂1903年刊)の口絵
朝日クロニクル「週間20世紀1901明治34年」朝日新聞社、19991212日発行
当時のハイカラお嬢様。
芝の自宅から上野の音楽学校まで自転車で通った
三浦環がモデルらしい。

 藤村操は、文京区白山の京北中学から一高に入学したのだが、かなりの猛勉強を強いられたのに違いない。多課目にわたる徹底的な内容の理解と暗記は、それ自体が、座禅とか絵画にも通じる苛酷さをもつものであり、操は試験勉強という修行をする内に純粋経験Aに到達したのに相違ない。

 若くして純粋経験Aに到達した人たちは、ほとんど例外なく、自動的にB領域の探検を開始する。それは平塚らいてうの場合と共通する。

 これらのB探検家が置かれる状況を簡単に説明すると、次のようなステップを踏
む。


    1.      苛酷な修行中に突然純粋経験Aに遭遇する。これは事前の予告もなく、受
    動的に発生するが、その経験自体は喜悦感を伴い、生命の実体を把握する
    内容であり、実在を実感させてくれる。

    2.      この体験を若くして味わった人たちは、それを表現するすべを知らない。
     かつ、周囲に同じ体験を持ち合わせる人を見出せない。つまり、話すに話
    せない孤独が待ち受けている。話し相手は古典しかないのが実情だ。


    3.      一方、自分の心のなかに純粋経験Aと相容れない心が存在することを発見
    する。嘘、謀り、暴力等々。かつ自分を取り巻く世界もまた、虚偽、悪徳、
    殺戮で満ち溢れている事実を認識せざるを得ない。

    4.      (本人はそうと自覚していないが)純粋経験Aに到達するに至った過程で、
    精神的にも肉体的にも疲れきっている。
B領域が本人のすぐ近くまで近づ
    いてきていることを本人は知らない。


    5.      したがって自動的にB領域の探検を開始する。To be or not to beが目前の
    最大の課題となる。キリスト教における自殺の禁止条項など、足かせには
    なりえない。


 仏教の世界では、この場合、「行動を起こさず、絶対解を得るまで考え続けよ」
と命令される。


 そして、考え続けるうちに純粋経験Bに到達する。到達するが、この経験の意味
するところがわからずに苦悶する。

 求心性を伴う暗黒世界がそこに待ち受けている。
この暗黒世界が意味するところは、純粋経験
A
内容と矛盾している。純粋経験
Aの絶対唯一性は
ここでもろくも崩れてしまう。純粋経験
Aに基づ
き一旦築き上げた価値観が崩壊する。宇宙は不可
解となる。人生の第一義が見えなくなる。理性で
納得できない状況に永く身を置くと発狂するとい
う予感もある。


 私たちは、事がここまできたときには、わが友
である釈迦がお悟りになられた時の状況を思い起
こすべきである。


 釈迦も考え続けた結果、Bの認識についての絶
対解を得られなかったのだ。

 そこでお釈迦さまは、行動を起こすことなく、
一旦休まれたのである。菩提樹の下でうつらうつ
らと。折好く近くを羊飼いの娘が通りかかったの
で、ミルクを所望した。頭の中を一旦カラッポに
して、ミルクを飲まれたとたんに、悟られたので
ある。


 われわれは解が得られる迄行動を起こしてはな
らない。


 かといって、筆者は藤村操を責めるつもりは毛
頭ない。疲れ切った結果、
B経験は出現したので
あるし、そのときには生物は死に行くのが当然で
ある。しかし、一見矛盾で満ち満ちているこの世
界で、すべてを統べる理屈・理論を求める哲学者
であるからには、自分で納得いく解答に到達する
までは死ぬに死ねないはずだ。


 そのときには一旦休むのだ。休養をとって、ミ
ルクを飲むのである。植木屋の言葉を借りると、
自分を「養生させる」のである。

 筆者はこれまでのさまざまな人々のさまざまな経験から、人間というも
のは、種々の経験と考察をかさねることにより、最終的に、荒涼とした、
硫黄の匂いのたちこめる、三途の川の河原に立つものであることを教えら
れた。とてもこの世のものとは思われない、索漠とした、白茶けた、求心
力のある、河のほとりである。あたりは暗い。

 道は明確に三つある。


 ゲーテのように、仮体ウェルテルを拳銃自殺させることにより難を逃れ
る方法。

 平塚らいてうのように、明るい世界へ逆戻りする方法。
 芥川龍之介、藤村操のように死んでしまう方法。


 但し、これら三つの方法のいずれを採っても、正解に到達しないことは
明らかである。

 正解はただひとつ。それは、純粋経験Bが純粋に内的な直覚的経験であ
り、実在であることを認めることなのだ。ブラックホールに吸い込まれる
感覚、私自身が点のように小さくなるという感覚、死の匂いの立ち込める
暗黒の世界、恐怖と戦慄にうち震える感覚、これらの感じは実在感とはほ
ど遠く、逆に実在が消えてなくなる感覚ではないか。これをして如何にし
て「実在」と呼べるかと読者は質問されるはずだ。実在という日本語が悪
いのかもしれぬ。英語では
reality、その感覚は真実だと言い換えたほうが
よいのかもしれぬ。

画像
吉原治良(19051972
「涙を流す顔」
1949(昭和24)
130.0 x 97.0 cm
京都国立近代美術館
京都国立近代美術館所蔵名品集[洋画]
光村推古書院株式会社、2004

日本人画家としてはじめて
内面の深刻な悲しみを
表現することに成功した

吉原治良(よしはら・じろう と読む)は大阪市の出身。
この画像は少女であろうと推定される。
悲しみの最中に地球は深い濃紺色に沈むのだ。
明るい希望などかけらさえ見あたらない。