健 康 状 態 の 函 数
A/Bの割合は当人の健康状態の函数である。
この点について、少なくとも純粋経験Aについては、松篁が熟慮の末、結
論に到達した。
純粋経験Aに到達する条件として松篁が挙げているのは、
健康であって、
精神が統一されていて、
静かに対象に打ち込む時間があって、
の三条件である。
あとの二者は精神の集中度に関する条件であるから除外することとして、
そうすると後に残るのは「健康であって」という条件である。健康でなければ純粋経験Aには到達しない・・・・・というのが結論のように思われる。
逆に心の問題を抱え、閉鎖空間で悩み抜き、それでも問題が解決できない
ときに、困憊憔悴した状態で純粋経験Bは現出する。
ゲーテは1772.11.15.「これほども困憊憔悴はしているけれども、それでも
まだやりぬくだけの力はもっている」状態で、
らいてうは「弱い、そして疲れた」状態で、
龍之介は「すっかり疲れ切った揚句」の状態で、
それぞれ、同一の内容のBに直面する。
すなわちBが現出するための必要条件は疲労困憊であると断言できよう。
疲労困憊にも、思考が原因での精神的疲労困憊の状態と、病弱が原因での肉
体的疲労困憊の状態との二つがあるが、そのいずれも該当すると筆者は考え
ている。
スティーブンスンは生まれつきの病弱で、瀕死の重病のさいにこの経験に
到達したはずだし、ゲーテも19歳のとき、一時重態に陥っているのである。
すなわち、
健康状態のときにA:Bは極大となり、(ほとんどAのみの状態とな
り)
困憊憔悴したときにA:Bの割合は極小となる。(ほとんどBのみの
状態となる)
A/Bが無限大となったとき、喜悦の心が体内より発生し、
A/Bが零となったとき、宇宙のブラックホールを体内に見る。
人間はこの二つの極のあいだを行ったり来たりするのだが、それは健康度の
函数であると断言できよう。
画像:
Edvard Munch, "The Sick child"
Nasjonalgalleriet, Oslo
高階秀爾『世界美術大全集』第24巻、
小学館
1996
死と対面する姉ソフィー。
22歳のときのこの作画により、
ムンクは生涯のテーマをBとする画家
となった。
Bを専門に描く画家なのだ。
日本人にはこのタイプの画家はいない。
前項で筆者は宇宙空間遊泳感覚と申し上げたが、そのうちに見えてくる尺
度とは、自分の健康状態に基づく、常時変動する価値観である。
昨日は A:B=70:30 だったが
今日は A:B=90:10 だなあ、と感ずるのである。
平成4年7月27日、画家の加山又造は日本経済新聞「私の履歴書」で次のよ
うに正直にいう。
病床で、衰弱しきった私は、自分に迫った死に対して恐怖とか悲
しみを全く感じなかった。頭の中は冴え、自分を含めて現世のあら
ゆることが透明に見えてき た。いっさいの我欲がうせていた。
ただあとに残された家族のひとりひとりが、何かかわいそうで仕方
がない気がしていた。私自身には一種の精神の充実感があった。生
とか死とかをこえた一つの境地に入っていた。そのことがよく自覚
できた。
再手術を受け、おどろくほど急速に回復し、食事ができるように
なると、数日で体重も元に復し、元気になった。そして、まことに
残念ながら、得たはずの悟りの境地からずり落ち、前にもまして我
欲に満ち、元の未熟きわまるわがままな自分に戻ってしまった。
又造の主張する通り、人間の心は行ったり来たりで、それが自然なのである。