その後、玉城康四郎は昭和51年東北大学教授となり、三年間を仙台で過ごす。

 その間、彼は原始経典のなかに記載されている業異熟(カンマ・ヴィパーカ)に着目する。この業異熟を業熟体と呼びかえ、この業熟体の定義を使って三つの偈の解釈をしようとするのだが、なかなかうまくいかない。我塊の解消がうまく進まず、業熟体理論との整合性がとれず苦しむ。


 このような玉城康四郎の自叙伝を読むと、「東京大学の偉い先生でもこの程度のものか」と感じる方もあるかもしれない。だが、本当は「東京大学の先生であるからこそ、このように自分の心の隅々まではっきりと告白できるのだ」と考えるべきだろう。これほどまでに自分の心に忠実な人は、この世にはほとんどいない。

 昭和54年より日本大学文理学部に移籍し、坐禅に換えて入出息念定(にっしつそくねんじょう)の行も試みるが、我塊はうまく解けない。

 著者は、この自叙伝の末尾で、64歳から79歳までの間の心象風景を書き綴っているが、このなかで76歳のときの体験をここに引用しておこう。

玉 城 康 四 郎 の 火 刑

 どうにも、こうにも、救いようのない、地獄のつる
ぎ、心核を貫けり。
 入定……痛苦、痛苦、痛苦、痛苦、……地獄、地獄、
地獄、地獄、
……焼かれる、焼かれる、焼かれる、焼
かれる、
……次第に静まる。
 煩悩潰乱、激苦のまま、焼けおちぬ。
 風邪をこじらせて、七月末から十一月半ばまで、四
ヶ月足らず入院した。この病は、私に仏道の基本を教
えてくれた。
 私は、自宅の部屋で、高熱を出して寝ていた。数日
も食事が喉を通らず、体は疲弊し、三十九度近くにも
なると、老骨の疲躯には耐えられなくなる。激苦にた
だ呻くばかり。ふと気がついてみたら、信心も救いも、
吹っ飛んでいた。すでに七十六歳、生涯をこの道にか
けてきた。その標的が成就しないとは。
 体の苦痛に、絶望が加わり、もうどうにも、こうに
もならなくなってしまったとき、図らずも、業熟体と
いうことが心をかすめた途端に、体の激苦も、心の絶
望も、スーッと消えてしまい、何か大きな力で、この
身心が、がっしりと掴まれていた。まさしく摂取不捨。
 やがて、この一場の出来ごとも過ぎ、私は救急車で
病院に運ばれ、病室のベッドに身を横たえた。その日
から三日目の深夜、眠りに入っていたとき、突然、無

(むけん)地獄に堕ちていた。火風が右から左へと、
べつ幕なしに体を吹き抜けていく。一瞬のとまること
もない。いわば火刑である。焔が見えるのでもなく、

赤鬼・青鬼がいるわけでもない。まったく形のないま
まの火あぶりである。当然ながら直ちに死ぬはずであ
るのに、死なない。どの位続いたのであろうか、あと
で見守ってくれた看護婦に聞くと、三時間ともいうし、
五時間ともいう。
 ともかく私は間断なき激痛のなかにあった。そのう
ちに、激苦のまま、死ぬべきものが死なない、つまり
死と不死とが一つになっているという思いが生まれて
くる。それとほとんど同時に、激苦の向う側にか、そ
れとも裏側にか、如来が感知されてくる。激苦は依然
としてそのままであるのに、一種の安らぎを覚え、や
がて眠りに入ってしまった。
                                                                (同上)

 彼はなまじ見性の境地にいたったがゆえに、最後の最後になって、生きながらの火刑に処せられたようである。


 誰が彼を火炙りの刑に処したのか、また、何の咎があって玉城康四郎は火炙りにされたのか、これは読者に考えていただくほうがよいだろう。

画題:「不動明王二童子像」(部分)
       鎌倉時代 
       個人蔵

        奥平英雄
      『日本絵画館 第四巻、鎌倉』
       講談社、昭和
45


       そのときには、
       激痛と激苦がある。

        しかし、
       死にはしない、

  と玉城康四郎は報告する。 

 ひとは、
           喜びと美しさだけを
        真実と断定しがちだが、

 それははたして正しい判定であろうか。