森田正馬は、東京帝国医科大学出身の神経症学者であった。というよりも、人間学の大家であり、心理学者であった。


 彼は患者にたいして、「人間のこころはつねにグラグラしているもので、それがノーマルなのだ」、と説いたのだ。

 もう一歩踏み込んでいえば、彼は、人間には拠って立つ絶対的なものがある、あるいはあるべきだ、と唱える「絶対論者」ではなく、人間のこころはつねにグラグラとゆれ動いているもので、それが本性であり、自分はこうあらねばならぬなどと、自分にたいして絶対的な価値を導入することがかえって神経症の原因になる、と説いた。彼は相対論者だったのである。

森 田 正 馬

     「面當てに死んで見せよう」

    尚ほ余は特に高等學校と大學の初期との時代は、殆んど常に

   所謂神經衰弱症に惱まされた。其前に余は十八歳の時に、東京
   に來て麻痺性脚氣に罹つた事がある。東京帝大に入學してから
   は、常に脚氣を恐れて居た。入學後、間もなく、大學の内科で
   診察を受けて、神經衰弱といはれ、其後更に脚氣の合併と診斷
   され、一年間の大部分は藥劑と離れなかった。然るに余は其一
   年級の終りの時に、或る動機から、余の身心に一大轉機の起る
   機會に遭遇した。それは余が必死必生の心境を體驗する事を得
   たことである。それは此一年間、所謂病気のために、殆んど學
   科の勉強は出來ず、既に試驗間際になって、其試驗に應ずる事
   の出來ないやうな有樣であった。折しも國元から二ヶ月も送金
   がない。余は人を怨み、身をかこち、やるせない憤懣の極、自
   暴自棄になった。よし!父母に對する面當てに、自ら死んで見
   せようと決心した。後に考ふれば誠に成人気(オトナゲ)ない事で
   あり、他人から見れば、極めて馬鹿気た事であるけれども、自
   分自身の其時にとつては眞劍である。藥も治療も一切の攝生を
   放擲した。夜も寢ずに勉強した。間もなく試驗も濟んだ。成績
   が思ったよりも上出來であった時には、何時の間にか、脚気も
   神經衰弱も其行衞が分らなくなつて居た。國元からは送金もあ
   つた。養蠶が忙がしくて、送る事を忘れて居たとの事である。
   余の今迄の神經衰弱は、實に假想的のものであった。固より脚
   氣でもなかった。                 
    (森田正馬『神經質ノ本態及療法』吐鳳堂書店、昭和三年)

 彼の語り口はたとえばこうだ。

 まず第一に、神経症というのは、あたまの働
きの特別すぐれた人しかかからないものだ、と
まず患者を褒める。

 次に、

 自分は美しくありたい、美しくあってしかる
べきだ、美しくならねばならない、それに対し
て現実の自分はどうあがいても醜い、と考える
と赤面恐怖症となるし、

 自分はよく勉強して偉くなって高い地位につ
きたい、そうあらねばならぬ、周囲が私にそれ
を要求している、にもかかわらず自分はどうあ
がいても怠惰そのものだ、と考えると、強迫神
経症となる。

 絶対価値を自分で勝手に作り上げ、それに固
執することが病気の原因である、

と述べたのである。



 では彼に、その根拠となる心理学の理論があ
ったのであろうか。それはなかった。しかし彼
は、彼自身の神経症を克服した結果、結果的に
相対論者となり、事実、その体験的相対論で多
数の患者を癒した。当時の神経症患者にとって、
森田正馬はじつに「神さま」なのであった。

         筆者注:森田正馬博士の主著は、
             『神経衰弱及強迫観念の根治法』
                      1926

 この本は、お読みになればわかるが、小説よ
りも面白い。ご参考までに別の本だが、「面當
てに死んで見せよう」という一文を引用してみ
よう。

画題:Arthur Streeton
 
        "The Purple Noon's Transparent Might"
     1896
         National Gallery of Victoria, Melbourne
  
       ”Great Australian Paintings"
         Lansdowne Press Pty Ltd, 1971

    この絵のように
        (混迷と暗黒を乗り越えた)
    明快に晴れ渡る心境を
    森田正馬は提供する。

    恐れるな、
    飛び込め、
    と彼は云う。


森田正馬博士の肉声はこちらで聞くことができます。