彼が天地を貫く大円柱を実見し、それを「畏怖を伴う実在の威厳」と了解し、その内容を美の本質であると観じ、「生命力が漲っている」と表現した神秘体験Aは、彼が25歳のときにやってきた。彼はこれを「悟り」と了解し、岸田劉生の林檎の絵のなかに、あれとまったく同じ意図を読み取った。
この体験は、その特徴と本質からして、玉城康四郎の「大爆発」、テレサの「一致の念祷」、すなわち聖霊の出現、と同質であることがご了解いただけたことと思う。
ところが、この体験の翌年、彼は極端な神経症に罹ってしまう。
天に見える黒点 幻覚
私は気違いになる、という 不安神経症
電車の客が全員僕を見つめる 赤面恐怖症
マッチの光が二十倍に感ずる 神経過敏症
高い所から飛び下りたくなる 強迫観念、自殺願望
これらの神経症の症状が一気に林武に集中する。本人はその当時身動きのとれない状態で、内心は「地獄に入れられていた」と感じたはずだ。また、文面から読み取れるとおり、それが快癒したのちも、当の本人は、なにゆえにそれが到来したのか理由がわかっていない。
A の 後 に き た 神 経 衰 弱
少しむつかしい言い方をしてみよう。
ヘーゲルの手法からすれば、「超克」して「アウフヘーベン」すべきBが、いまや林武の魂の全てを占領するにいたった。このケースでは、ヘーゲルがいかに「超克」と叫んでも、超克して到達すべき「絶対的な心の領域A」は、林武にとっては既知の領域に過ぎない。つまり、林武は、「BはAの内側に存在するのではなく、外側に存在し、しかもAを内包している。この場合の哲学は、はたしてなにであるべきか?」、と全身全霊をかけて問うた、のである。
神秘体験Aに到達した人びとのうち、かなり多くのパーセンテージの人たちにこの現象が現れることを、筆者はここに指摘しておきたい。
神秘体験Aにいたれば、なにか良いことがあるなどと思っておられる方には、林武の偽りのない報告が、神秘体験Aの可能的なメリットに対する対抗要件となりうることを申し添えておかないと、公平とはいえないであろう。
とりわけ、高いところから飛び下りたくなる自殺願望に注目したい。それは突然、強力な力で当人のハートを掴んでしまう。理由がわからないのに、そうしたくなるのだ。
幸いに、その当時は神経症治しの天才である森田正馬がいて、適切なアドヴァイスをタイミングよく与えてくれたため、林武は間一髪で助かった。
画題: Franz Marc (1880-1916)
Kaepfende Formen/
闘争する形態
1914
BayerischeStaatsgemaldesammlungen
Neue Pinakothek,
Munchen
カンヴァス世界の名画14
『カンディンスキーと表現主義』
井上靖/高階秀爾、
中央公論社、1975
根源的な
エネルギーの
相克。
ウェルテルの言葉によれば、
1772.12.12.
正体の分からない
内的の擾乱(じょうらん)だ。
それがこの胸をひき裂き、
咽(のど)を押さえつける!
くるしい! くるしい!
(竹山道雄訳、岩波文庫)