また、プラトン派の書物のどこをどう読んでも、キリストの死後彼を慕った信者が見せた信心深い顔も、告白の涙も、見つけることはできない。


(プラトン派の書物に見られない、いかなるものを、聖書のうちに見出したか)

 ……しかしこのようなことは、かのプラトン派の書物のうちには見られなかった。それらの書物のうち、どこにも、信心深い顔も、告白の涙も、「あなたにささげるいけにえ」も、「打ち砕かれてへりくだる心」も、民の救いも、「あなたの花嫁である神の国」も、「聖霊の保証」も、わたしたちのあがないである血の盃も、そこには見当らなかった。

 ……

 プラトン派の人びとは、「かれが心のやさしい高ぶらない人であるからかれに学ぶ」ことをさげすむのである。しかしそれは、「あなたがこれらのことを知恵のある人や、賢い人にかくして、幼児に打ち明けられた」からである。

                  (同上、7-21

 プラトンやプロティノスは「謙虚にへりくだることを知っているかどうか」という点で明らかにキリストとは異なっている、とアウグスティヌスは指摘する。

 第一点に関しては即座に同意する。すなわち、アウグスティヌス自身が経験した神秘体験Aは、プラトンやプロティノスが経験したそれと同一であり、彼等の記述と符合する、という。したがって、問題はない。


 問題は第二点なのだが、神秘体験Aがキリストの精神か、と問えば、「そうではない」と答えざるを得ない。プラトンやプロティノスの主張する「それ」は、「君は知っていないだろうが、私は知っているぞ」という傲慢の心であり、「イエス・キリストという謙虚の土台の上に立てる愛」であるとはとても思えず、「私たちの救世主」、つまり人を「救う」心であるとはとても感じられなかった、と彼は述べる。


 彼の言葉を聞こう。



(プラトン派の書物を読んで認識はひらけたが、傲慢も増長する)

 しかしそのとき、わたしはかのプラトン派の書物を読み、それによって非物体的な真理を探究するようになり、「あなたの見られないものを、造られたものによって悟り得て明らかに認めた」。そして突きかえされながら、わたしの魂の闇のために見ることができなかったものを感知した。わたしはあなたが存在すること、無限でありながらしかも有限の空間にも、無限の空間にもひろがらないこと、あなたが真に存在し、つねに同一であってどの関係においても、またどの運動によっても変化しないこと。しかしあなた以外のものは、それが存在するというもっとも確実な証拠から見ても、あなたによって創造されたものであるということを確信していた。わたしはこれらのことを確信していたが、あまりにも無力なために、あなたを享受することはできなかった。わたしは何もかも知っているかのように、多弁を弄していた。もしわたしが「わたしたちの救い主であるキリスト」のうちにあなたの道を求めなかったなら、わたしは知っていたのではなく、死のうとしていたのであろう。じっさいわたしは、自己の刑罰を身に負うて賢明であると見られることを望みはじめ、そのようなことに涙を流さないのみか、かえって「わたしの知識を誇りとしていた」からである。いったい、「イエス・キリストという謙虚の土台の上に立てる愛」はどこにあったのであろうか。かのプラトン派の書物は、いつなんどきわたしにこの愛を教えたであろうか。……

                (同上、7-20

自 己 矛 盾 の 整 理 の 仕 方

画像:Giovanni Bellini
          "Christ'sBlessing"  circa1460

 Michel Laclotte
  "The Louvre, European Paintings"1989
Scala Publications Ltd.


この画像から読みとれると
筆者は確信するが、
キリストの「愛」は,
受難を通して表現する
「人類にたいする愛情」
なのである。
この「愛」が、
神秘体験Aには欠けている、
とアウグスティヌスは指摘する。

 アウグスティヌスが短時間の神秘体験Aから我にかえっ
て、吟味したことは、次の三点であったことが『告白』か
ら読みとれる。

     1. 彼自身の体験した神秘体験Aは、プラトンの「イデ
     ア」であり、プロティノスの「善なるもの、一なる
     もの」であるかどうか。

     2. だとすれば、この神秘体験Aは「キリストの精神」
     である、と同定できるかどうか。

     3. 神秘体験Aは自己の本質であるが、自己の全体であ
     るかどうか。