さて第三点であるが、神秘体験Aは自己の本質であることは認めたものの、はたしてそれは自己の全体を構成するのであろうか。

 アウグスティヌスは、「否」と答える。

 そのときのわたしは、一瞬かいま見た善(神秘体験A)と、自らの犯した罪悪、自らの魂のうちに潜む悪、具体的には憎むべき自分の肉欲、というけがわらしい誘惑の心との板ばさみになっていたことを告白せねばならない。わたしの魂は、霊と肉との間で分裂状態に陥っていた、とアウグスティヌスは説明する。


(古い意思に捉えられて、回心することができない)

 (わたしは)、他人の鉄鎖ではなく、わたしの意志という鉄鎖に縛られていた。敵は、わたしの意志を捉えて、わたしの意志からわたしを縛る鎖をつくり、それをもってわたしを縛りあげた。じっさい、意思は堕落して肉欲となり、肉欲はそれに耽ることによって習慣となり、習慣はそれにさからわないうちに必然となった。これらのものは、……わたしを拘束して深い絆の状態にしてしまった。……このようにわたしの二つの意志が、一つは古く一つは新しく、一つは肉により一つは霊による意志が、たがいに争いあってその闘争によってわたしの魂を引きさいた。

                  (同上、8-5



 だが、これを私の意志の内にひそむ悪であると考えてはならない。意志のなかに善の意志と悪の意志とがあって、善と悪とは対立する存在であると断定してはいけない。(善(神秘体験A)はわれわれの心眼で捉えることができるが、悪はそうすることができない。だから)悪と思われるものは罪の業なのだ、と考えたらよい。アダムが犯した原罪にたいする罰なのだ、と考えねばならぬ。(それは存在はするように見えるが、心眼ではそのコアを捉えられない、覗き込んでも底の知れない深淵なのだ、つまり実体のつかまえられない悪なのだ。)


(二つの相争う意志から、二つの相反する本性の存在を考えてはならない)

 神よ、考察をすることによって、二つの意志が認められることを理由にして、本性を異にする二つの精神があり、一方は善であって、他方は悪であると主張する人びとがあるが、むなしいことを語って人の心を惑わすものが滅びるように、あなたの御前から滅ぼしてください。……

(主であるわたしの神にこれから仕えようと考えていたとき)わたしは完全な仕方で欲していたのではなく、完全な仕方で欲しなかったのでもない。それゆえ、わたしは、わたしと争い、私自身から引き裂かれた。この意志の分裂は、わたしの意志に反して起こったものであるが、しかしそれはわたしのうちに何か別の精神的本能があるのを示すものではなく、わたしの精神のこうむっている罰を示すものであった。それゆえ分裂はもはやわたしの業(わざ)ではなく、わたしのうちに宿る罪の業であり、もっと自由な状態で犯した罪に対する罰から起るのである。わたしもアダムの子であったからである。

                 (同上、8-10


 どうでもよいことかも知れぬが、日本人の場合には、アウグスティヌスのこの意見はなかなか素直には受け入れてもらえぬだろう。第一、日本にはアダムとイブ伝説が存在していない。もし仮に存在したとしても、人間が生まれたときから逃げることのできない「原罪」を背負っている、などという説は不合理そのもので、受け入れられる余地はほとんどない。また、日本人は、自らのすべての考えとそれに基いた行為に関して、つねに十全の責任をとるように教え込まれている。だから、悪の意志は存在するが、(深淵で)底が見えないから根拠がない、ときめつけたり断定したりすることは到底できない、と考えることであろう。

神秘体験Aは自己の全体を構成するか?

画像:Andrea Mantegna
          "The Dead Christ" 1570's

   "Brera Milan"
          Newsweek/Great Museums of the World,

         New York, N.Y. 1981


 魂が引き裂かれた人たちは、
マンテーニャの
「死せるキリスト」を鑑賞することで、
心の痛みを和らげることができるかもしれない。

少なくとも「死」は、
魂が苦しむことを許さないからだ。

 余談はさておき、

 しかし、現実にわたしは、わたしの心の内にひそむ肉欲と、肉欲が過去にひきおこした罪悪に苦しみぬいている。この状態はいかにしたら解消できるものか。肉欲を完全に根元から捨て去ることはできないだろうか。

 その方法を私の場合を例にあげてお話しましょう、とアウ
グスティヌスは続ける。

 
 そんな夢みたいな方策はあるのだろうか。