アウグスティヌスは西暦3541113日、
ローマ領北アフリカ、ヌミディア州のタガス
テで生まれた。その当時、農林業地帯の中心
地であったタガステは、現在はアルジェリア
のスーク・アハラスと呼ばれている場所で、
当時のカルタゴ(現在はチュニジアのチュニ
ス)の西方約
200kmのところにある。

 父パトリキウスは、ささやかな葡萄園や農
地を持った地方公務員であったが、その暮ら
しぶりはあまり豊かだったとは言えまい。母
モニカは幼少のころからの信心深いカトリッ
ク教徒であったらしい。

アウグスティヌスの時代背景

 現在のチュニジアはとても乾燥した土地であるが、1,600年前は豊沃な農業地帯であり、現在のイタリア(ローマ、ミラノを含めて)に対する農産物の供給基地となっており、カルタゴはローマ帝国第二の大都会として栄えていた。

 彼の出生に遡ること30年、時のローマ皇帝コンスタンティヌス大帝は、西暦324年、国民にたいしてキリスト教への改宗を要請し、翌年325年、ニカエア会議では三位一体説を主張するアタナシウス派が数の上では勝った。ところが、アリウス派の根強い主張に妥協する形で、Homoousion(ホモウシオン)三位同質説が採択され、ここにおいて正統派とアリウス派の争いには火に油が注がれた。

 また、西暦321年には、教会にたいする死後財産の遺贈が許可されて、教会は急速に富裕化し、世俗世界の権力にたいする霊的世界の権力の独立化が加速された。

 ところが、アウグスティヌスの生まれたころのヌミディアは、このような教会の動きとはかけ離れ、かなり野蛮で粗暴な精神的風土だった。つとに「異端」と宣言されていたドナトゥス派がヌミディア・マウレタニアの農民群の支持を得て狂信徒団となっていた。彼等は棍棒を唯一の武器として略奪を繰返すと同時に、永年の抑圧状態で疲れきり、自ら進んで殉教することを望んでいた。そのために、捕まれば裁判官にたいして自分自身の処刑を強請し、旅人には自分を打首にしてくれるよう要求したという。

 アウグスティヌスが10歳のとき、ヴァレンティニアス一世が即位したが、彼の任命したアフリカ属州の督軍(軍事指揮権をもつ知事)ロマヌスは醜陋な私欲追求タイプの悪代官だった。その圧制にたまりかねた黒人マウル王族の一人フィルムスが反乱をおこし、その勢力はマウレタニア、ヌミディア両属州で確立した。

 ヴァレンティニアス帝はヒスパニア生まれの大テオドシウスを反乱軍鎮圧のため派遣し、大テオドシウスは逃げるフィルムスをアトラス山系の奥地で仕留めた。これが西暦370年で、アウグスティヌスが16歳のときのことである。

 この大テオドシウス(のちのテオドシウス帝の父)は結局ロマヌスの奸計にかかり、西暦376年、アウグスティヌスが22歳のとき、カルタゴで斬首刑に処せられた。

 このようにキリスト教は順調に発展しつづけてはいたものの、彼の生まれた北アフリカは、政情も民情もきわめて不安定な時期にあった。

 このような時代背景のもとにアウグスティヌスは生まれ育ち、前にも記したように、16歳のとき篤志家の援助を受けてカルタゴに出て、身分の低い女と同棲し、放縦な生活を送った。

 大テオドシウスがカルタゴで斬首刑に処せられたとき、彼はカルタゴで修辞学(現代用語では、法学)を教えていたが、29歳のとき、帝国の首都ローマに出て、修辞学を教えて生活した。この間、マニ教、アカデミア派の懐疑論に傾注していたという。

 このころ、ヴァレンティニアス二世(幼少)とその母后ユスティナの宮廷はミラノにあった。一方、精神的な指導者は、大衆から絶大な信望をかち得ていたミラノの大司教アンブロシウスだった。

 アウグスティヌスは30歳にして、ミラノの国立学校修辞学教授となった。

 ちょうどそのころ、彼は神秘体験Aに到達した。正確に何時の時点だったか特定できない。母モニカの希望で15年間連れ添った女と別れ、幼少の少女と婚約し、その少女が法定上許される結婚年齢に達するのを待ちきれず、さらに別の女と関係を結んだ挙句のことだったらしい。

 

 

画像:最近のHippo の写真
 
         最近のHippo周辺の模様を報告する格好のHP
          Augustine of Hippoから借用。

アウグスティヌス活動領域の地図

http://isweb40.infoseek.co.jp/school/jbg01655/images/augustine_map.jpg

周辺地図: 拡大写真はこちら
              Augustine of Hippoから借用。