(A) ことの初めはアテナイのプラトンである……と彼は説明する。

 プラトンは「神性を三重の変態、すなわち第一原因と理性(ロゴス)。そしてまた宇宙の魂ないしは精神という形で神性を考え」、そしてプラトンの後継者たちが、この理性(ロゴス)を「永遠の父なる神の子」、また世界の「創造者かつ支配者」という、より理解しやすい性格として考え」るようになった。

(B) その後、マケドニアのアレクサンドロス大王の東征により、ギリシャ語とその学はアジア、エジプトの地に伝播(でんぱ)することとなり、

 プラトンの神学説もまた、もはやなんの憚りなく、むしろ若干の進歩改訂をさえ加えて、かの有名なアレクサンドリア市の学園でも教えられるようになった (300年頃)。当時この新首都には、プトレマイオス王家の庇護により、夥しいユダヤ人が迎えられ定住していた。……そうした彼等がこのプラトン神学説を熱心に究め、また心からこれを信奉した。……キリスト生誕約一世紀前だが、アレクサンドリア市在住のユダヤ人たちが一篇の哲学論文を書き上げた。明らかにプラトン学派の文体と思想とを模したものだが、なんとそれが霊感の経典「ソロモンの知恵」の貴重な真正遺文としていっせいに承認を受けたのだった。またこれも大部分はアウグストゥス帝時代に編まれたものだが、哲学者フィロン(30?−後50?年。アレクサンドリアのユダヤ人哲学者)の著作というのが、やはり同様モーセ信仰とギリシャ哲学との巧みな統合だった。宇宙の霊として有形的実体を認めることは、ヘブライ人の信仰心を傷つけたはずだが、彼等はモーセや祖先族長たちの神ヤハウェに対し理性(ロゴス)の性質を巧みに当てはめた。そして「宇宙因」の性格や属性とは明らかに両立不可能と見える日常卑近な役割を果たさせるために、可視的どころか、人間の姿をすらした「神の子」なる発想を導き入れたのだ。

(ギボン『ローマ帝国衰亡史』第21章、中野好夫訳、筑摩書房)

(C)
   さらに続けて、

 もっとも、これにはプラトンの博弁と、ソロモンの名前、さらにはアレクサンドリア学派の権威、しかもユダヤ人、ギリシャ人こぞっての同意まであったが、なおかつこの神秘的教義の真理性を確立するには不十分だった。つまり、合理的精神を喜ばすことはできても、満足させるまでには至らなかったのだ。人間信仰心への正当支配ともなれば、それは神からの霊感を受けた預言者または使徒にして、はじめてなしうることであり、もし「言(ロゴス)」なる名辞とその神的諸属性が、最後の、しかももっとも哲学的な福音書著者(使徒ヨハネのこと。なおこの前後は「ヨハネ福音書」一章一節、「初めに言あり、言は神と共にあり、言は神なりき」というあの有名な一節についての言及である)の聖なる筆により確証されていなかったならば、おそらくプラトンのこの神学説も永久にただアカデメイア学派、ストア学派、またアリストテレス学派等々の哲学的幻想と混同されるだけで終っていたことであろう。ところがネルヴァ帝時代(在位968)に完成されたとされるキリスト教の「黙示」論は(もちろん「ヨハネ黙示録」のこと。但し、執筆時はむしろドミティアヌス帝(在位8196)による迫害時代に遡らせるのが定説のようである)、驚くべき秘儀を人々に明らかにした。すなわち、原初より神と共にあり、万物を創造し、逆にまた万物はそのためにこそ創られたとされる神自体でもあった「言(ロゴス)」が、ナザレ人(びと)イエスという人格となり、処女から生れ、十字架上で死んだことをあきらかにしたからだった。                                       (同上)

イエス・キリストのプラトン化

 自らの心のなかにある「悪」の解消を、「奇蹟」という手段で強制的に実行したアウグスティヌスは、いまや「聖霊」がプラトンの主張するイデアであることを認める。

 なぜこのような理屈になるのであろうか? あの偉大なイエス・キリストがプラトンと同種の人物だとはとても思えないが、と質問すると、「その理由は歴史的に跡をたどってみるとこうなのだ」、とギボンは説明する。少し長くなるが、以下ギボンの説明に耳を傾けよう。

 長々とした説明であったが、要点はご理解いただけたのではないかと思う。

 (ちなみにギボンはプロテスタントであったから、この点に注意して多少割り引いて受けとる必要があるかもしれない。この事実を考慮したとしても)、偉大なイエス・キリストは、歴史的にこのような経過をたどって単なるプラトン主義者にすり変わってしまったようだ。

 上述のギボンの説明にあるように、その立役者はヨハネであるが、パウロもキリスト像のプラトン化(プラトナイゼーションというべきか)に大いに力があったと見る人もいる。

 では「三位一体」をギボンはどう見ているのであろうか。

 彼は、「三位一体」という概念を、(もし難しい言葉を使うことが許されるならば)、「人類の価値基準の変更の歴史的発展段階における妥協の産物」と見ているように思える。

 この歴史的発展段階における妥協が正しかったのかどうかは別にして、この妥協の結果の「三位一体」という概念がはたしてキリストの精神と合致していたかどうか、についてギボンはネガティブな立場をとっている。にもかかわらず、ローマ帝国末期に人間の価値基準の変更がきわめて大掛かりに実施されたことは歴史的事実として認めなければならない、と主張する。

 それにしても、人間の心というのはなんというまわりくどいものであろうか。心、流れてやまぬわれわれの心のなかにひとつの基準点をつくるという作業は、なんとやっかいで時間のかかるものであろうか。時間どころか、肝心の人間の血をいかに夥しく流さなければ、決着のつかないものであろうか。この点に関するギボンの記述は詳細をきわめている

写真: Pisa、2001年5月撮影。

    これらの壮大な建築群が、

    人間にとって
    不可視の世界への

    思い込みや、
    想像や、
    でっち上げや、
    単なる創作の結果として
    構築された、

    と主張されているのだ。

    なんとまあ!