ここでは「悪の処理はどのような方法論に拠るべきか」という問題はいったん横におくとして、こうしたまわりくどい論法をもってアウグスティヌスは、新約聖書にでてくる聖霊が「永遠に若々しい楽園の歓喜」(9-3)であり、人間の精神に生じる神秘体験Aそのものであることを認めた。
大するならば、この無尽蔵の供給源から発した作り話や誤りの数は容易に計算できるものではあるまいか。しかしわれわれが言うことを確実にゆるされると思うのは、この迷信と軽信の時代に、奇蹟はその名も価値も失ったという一事である。それは「奇蹟」が、確立された通常の自然法則からの逸脱とは、もはや考えられなくなったからである。
(ギボン『ローマ帝国衰亡史』第28章、朱牟田夏雄訳、筑摩書房)
奇跡という名のショートカット(ギボン)
錯綜した「考え」の筋道をただすためには「奇跡」が必要だというならば、われわれの住むこの世界には無数の奇跡が必要になる。奇跡とは日常茶飯事の出来事とならねばならない。
このような疑問に対して、18世紀の歴史家エドワード・ギボンはアウグスティヌスを弁護する。
重厚な学者アウグスティヌスの知性は、軽信の言い抜けを到底ゆるすべくもないが、その彼が、聖ステパノの遺品によってアフリカで行われた無数の驚異を証言している。この驚くべき記述は、このヒッポの司教がキリスト教の真理の堅実不朽の証明として企画したその苦心の著作『神の国』の中に挿入されているのだ。しかもアウグスティヌスは、かの殉教者の超能力の対象あるいは目撃者だった人びとによって公に証言された奇蹟のみを選んだと、厳粛に宣言している。割愛したり忘れられたりした驚異もたくさんあり、またヒッポは属州内の他都市に比して採録数はむしろ少ない。とはいえアウグスティヌスは七十例以上の奇蹟を挙げており、その内三例は死者の復活で、これらは彼自身の教区内に限り、期間でいうと二年間の出来事である。もし視野をキリスト教世界の全教区、全信者に拡
つまり噛みくだいていえば、こうだ。
西暦400年頃の当時は、自然法則という概念すらあやふやで、人は迷信と軽信のなかに生きていたのだ。迷信と軽信で凝り固まった人たちの心の中にすべりこむためには、それが作り話であれなんであれ、神の啓示という奇跡があったと告げるのが一番手軽であり、その告白者当人には作り話をしたとか、誤りを告げたという良心の呵責さえも存在しなかったのだ、と彼は言っているのである。
西暦374年、当時のローマ皇帝テオドシウス帝によってリグリア州総督より抜擢されたミラノの大司教アンブロシウスは、民衆より圧倒的な支持を得ていたが、その彼も数々の奇蹟の実行者であった。そのアンブロシウスがアウグスティヌスの授洗者であったのだから、弟子が弟子なら師も師だなどと軽蔑して考えずに、アウグスティヌスの「取って読め……」の箇所を読んで「おかしいな」と思っても、迷信と軽信が横行していた時代の人たちに、神の存在を理解させるためアウグスティヌスが使った方便のひとつと考えたらよい、なにもめくじら立てる必要はなかろう、とギボンはやんわりと我々をたしなめる。
画題:Michael Pacher
"Church Fathers' Alter"
c 1480
Erich Steingraber
"The Alte Pinakothek
Munich"
Philip Wilson Publishers
Ltd.
1985
向かって左側の人物が
アウグスティヌス。
ここには写っていないが、
右側板にアンブロシゥスが
描かれている。