さらにもう一つ理由がある。

(無知の原因。第一、観念の欠如)


 すでに(本章の初めに)明示したように、私たちの真知はごく狭いから、心の暗い面をちょっとのぞいて、私たちの無知を眺めると、私たちの心の現状がおそらくすこしはわかるだろう。                  (4-3-22
 これに加えて無数の諸霊、すなわち、あるかもしれないし、たぶんあるが、私たちの知るところとはなおいっそうかけ離れ、すこしも認識されないし、いろいろな位階や種類について判明な観念を心に形成できない、無数の諸霊を考えると、無知のこの原因は知的世界のほとんど全体を、私たちから測りしれない不明瞭さのうちに隠すことが見いだされるだろう。                     (4-3-27)



 こう話している私自身の心の中を探索する。特に暗い面を探索してみると、私の心のなかに、自分自身でも理解できない暗い部分があるのに私は気づいている。これらは本原的啓示(神秘体験
A)の枠からはずれた領域外にある。しかし、私のこころは私のものであるから、それらを自分のものでないと否定することはできない。

 私は、本原的啓示を自分のものである、と認める。しかし、これが唯一のもので私のすべてである、とは認めることはできない。心のなかには暗い面があるからだ。それが何かはわからない。しかし、それは存在する、……と彼はきわめて正直に自分の心の実態を認める。

諸 霊 の 存 在

 その他に、私の心に外部から「取り憑く」と称される諸霊がある。普通一般に悪霊と呼ばれるものが、そのひとつなのだが、現実に悪霊にとりつかれる人も存在することだし、その存在だとか、その取り憑きかただとかは、理解できないことだし、否定もできない。

 すなわち、「諸霊に関してははるかに多く無知の暗闇にあると、たやすく結論されると思う」      (4-3-17)


 読者は、すでに林武(
2)でご理解いただいたように、とくに神秘体験Aを経験したあとで、人間は正体の知れないものに取り憑かれることがある。これをロックの時代には「悪霊に取り憑かれた」と表現したのだ。その正体が何で、何を意味するか理解できなかったからだ。またスペインのテレサの場合にも、念祷の一致、恍惚の状態の後、彼女が悪魔にとりつかれた実例も研究した。白隠の場合は、禅病と称する強烈なノイローゼ症状に襲われたことも記憶されているだろう。それらの正体を突き止められない場合は、人間はこれらの症状を称して、諸霊と表現し、諸霊の存在を認めざるをえないもののようだ。

 上述の三つの理由をもって、


 啓示は、啓示を受けたその本人の個人的経験にとどめておいた方がよい。啓示の内容をもって絶対的な真理の根底としないほうがよい。


と私は考える
……、とロックは述べた。

画題:Mikhail A. Vrubel
        Demon Seated1890 (部分)
         油彩 カンヴァス
   Tretyakov Gallery, Moscow
         高階秀爾
      『世界美術大全集 第
24巻 
               世紀末と象徴主義』

         小学館 1996

   夕映えを背に巨大で筋肉隆々たる
      若いデモンが膝をかかえて坐っている。
      その頬には涙が光り、
      苦悩に耐える孤高のデモンの周りには
      神秘的な花が咲き乱れている。
      灰色、藤色、青色の色面は
      モザイクのように輝き、
      そのハーモニーは
      デモンの内面の苦しみに呼応する。
      ヴルーベリのデモンは苦悩の果てに、
      力尽きて滅びゆく運命を担っている。
                            (新田喜代見)