上村松篁「私の履歴書」(続)

 絵かきとしての私の人生にとっては、この夏の里芋畑の体験
は、大きなエポックを画する出来事として忘れることのできな
いものになった。

 その後も私は、この体験について何度も振り返り、どんな条
件であのような恍惚境に到達できるのか考えた。健康であって、
精神が統一されていて、静かに対象に打ち込む時間があって、
という具合に条件がそろった時に、自然の中に没入する雰囲気
になり、あの境地に達することができるようだ。

  我々のような凡人は勉強を繰り返し、修行を積んだうえ、体
調を整えて努力をしなければできないが、天才と呼ばれる人た
ちは、私が一ヶ月間芋の葉を見つめて「実在」に触れたことを、
一瞬のうちに感得するのだろう、とも思った。

  それから約三十年たって、私の修行も多少は進んだとみえて、
最近では一ヶ月もかからず、二日ほど対象をジーッと見つめて
いれば三昧の境地に近づけるようになった。条件のいい時には、
二、三時間も写生をしていると似たような境地に入ることがで
きるのである。                                                   (同上)  

  このような体験は、経験しない人にとっては「神秘的」と思えるから、
「神秘体験」と呼ばれる。経験した人にとっては、その内容に「濁りが
ない」から、「純粋経験」と呼ぶこともある。自然の生命を「直接に把
握した」と感じるから、「直接体験」と名付けられることもある。呼び
名はいろいろだが、内容はただひとつなのである。

 さて、その内容なのだが、松篁の場合には「体を包み込む水の音」と
表現されているそれは、


    意識が自然の中に没入して一体化したもので、
    実在する生命を直接に把握させてくれ、
    喜びを伴い、
    しかも今迄の努力に対するゆるぎない確信を与え返してくれる、


性質をもっていることが理解されるだろう。まるで全ての意識のベクト
ルを磁石に近づけて同一方向に揃えきったとき、堰のあふれるようにエ
ネルギーが欣喜雀躍あふれ出すような有様である。しかもこれは、初回
以降は当人がそう意識すれば、比較的簡単に反復することができる「反
復性」をもつことも上記から理解できるだろう。

 松篁にとっては、自分の生命の証を見たのであり、自分の生き方にた
いするゆるぎのない確信をこの神秘体験から得たのである。

 この神秘体験の特徴については、後に更にくわしく他の例につき、ケ
ーススタディーすることとして、ここでは松篁の精神的なバックボーン
となっている母親松園の「無題抄」と題する文章を、随筆集「青眉抄」
(三彩社、昭和47年1月15日発行)のなかから紹介することとしよう。

 大いなるものゝ力にひかれゆく……まことに、私たち人
間のあゆみゆく姿は、大いなる天地(あめつち)の神々、
大慈大悲のみ仏から見られたならば、蟻のあるきゆく姿よ
りも哀れちいさなものなのに違いありません。

 人事をつくして天命を待つ、とむかしの人が申したよう
に、何事も、やれるところまで努めつくしてみた上で、さ
てそれ以上は、大いなる神や仏のお力に待つよりほかはあ
りません。

 芸術上のことでも、そうであります。自分の力の及ぶ限
り、これ以上は自分の力ではどうにもならないという処ま
で工夫し、押しつめて行ってこそ、はじめて、大いなる神
仏のお力がそこに降されるのであります。天の啓示とでも
申しましょうか、人事の最後まで努力すれば、必ずそのう
しろには神仏の啓示があって道は忽然と拓けてまいるもの
だと、わたくしは、画道五十年の経験から、しみじみとそ
う思わずにはいられません。

 なせば成るなさねば成らぬ何事も、ならぬは人のなさぬ
なりけれ……の歌は、このあたりのことをうたったもので
あろうと存じます。

 人の力でどうにもならないことが――特に芸術の上で多
くあるようです。考えの及ばないこと、どうしても、そこ
へ思い到らないことが度々ありました。そのようなときで
も、諦めすてずに、一途にそれの打開策について想をねり、
工夫を」こらしてゆけば、そこに天の啓示があるのです。

 なせばなる――の歌は、この最後の、もう一押し、一ふ
んばりを諦めすてることの弱い精神に鞭打つ言葉であろう
と思います。

 ならぬは人のなさぬなりけり――とは、人が最後の努力
を惜しむから成らぬのであると言うことで、結局最後は天
地の大いなる力がそこに働いて、その人を助けるのであり
ます。

 …………

 天の啓示を受けるということは、機会を掴むということ
であります。
 天の啓示とは機会ということであります。
 機会ほど、うっかりしていると逃げてしまうものはあり
ません。
 機会を掴むのにも、不断の努力と精進が必要なのであり
ます。

   松篁が松園の一粒種であることを考えると、松篁が松園の気質と魂魄
の気迫を受け継いで、精進に精進を重ねるタイプの人間だったことは明
白であろう。


   
道なきところに道を求めて精進に精進を重ねると、ある日、天啓のよ
うに神秘体験に遭遇する。これが、われわれの肉体のなかにひそむ生命
というものであったか、これが神の創造された生命の実体であったのか、
と喜びに酔いしれることになる。




   
蛇足だが、

分析:
− 自然物への凝視による精神の集中状態の継続中にそれは生じた。
− 突然何の前触れもなく、向こうからやってくる。
− 体の全体が包み込まれる忘我状態が二十分くらい続いた。
− 忘我状態が終了すると同時に、有難さが湧き出て、喜びの涙が流れ
   た。
− 喜びの状態がその後も続く。
− 感じ方は、
    自然の生命に触れた
    実在という言葉の感覚が体で感じられる。
    霊感にふれたと感じる。
    今までの努力が報われた、と感じる。
− 発生のための条件
    健康であること。
    精神が統一されていること。
    時間的な余裕があること。
− 時期を隔てたあとでの能動的な反復可能性。つまり、そのコツがわ
    
かれば、二回目以降は本人の意思による反復が可能となること。

等々、日時、精神状況、受動的感覚の内容、時間の記述、反復性の記述
が冷静な観察眼で記載されており、日本人によって書かれた経験談のな
かでは、古今を通して白眉の作品であるといえる。この文章自体が超一
流の芸術作品になっている。

画題:(松篁の画でなくて申し訳ないが、)

      小田海僊
    『草花図帖』文政9年(1826)
    絹本著色 画帖
    姫百合に撫子。
      平山郁夫
      『秘蔵見本美術大鑑9
     ライデン国立民族学博物館』
      講談社 1993
           
    画材の生命と一体化するまで
    画材を見つめぬくのだ、

    と松篁は言う。

画題:上村松園「新蛍」1929
      
山種美術館