上村松園の精神的バックボーンの下に開いた松篁の神秘体験は、過去の彼の努力にたいし、それを打ち返してくれる性質のもので、なおかつ非常な喜悦感をともなっていた。

 だから誰が何を言おうとも、この神秘体験は(既体験者によって)肯定される、あるいは(未経験者によっても)肯定されるべき体験であった。すなわち、それは「道徳的な神秘体験」であると言い切ることができるかもしれない。


 
19世紀の終わりに米国に出現した心理学者、ウイリアム・ジェイムズは、上村松篁のこのような経験を、「健全なる心」とタイトルをつけた上で、宗教経験のなかにかぞえる。(『宗教的経験の諸相』を参照のこと)。そして上村松篁の記述は、ジェイムズが「健全な心」の特徴として挙げた特徴をすべて網羅している。 すなわち、松篁の経験は、ジェームズが宗教経験として「健全な心」と記述する精神現象と一致している。ここまでは問題がない。

 ところがジェイムズは、宗教的経験には「健全な心」という喜ばしい経験のほかに、それと対をなすもう片方の経験がある、と主張しているのである。これを彼は、「病める魂」と名付けた。

 では「病める魂」とはなにであろうか。「病める魂」をもっている人の説明を聞いてみよう。


 ⇒ 「病める魂」が見る世


 筆者は、西田幾多郎が、二十世紀の初めに、ジェイムズの唱えた「流れる意識」に気をとられてうっかり見過ごしてしまったこのポイントに焦点を合わせ、「病める魂」の人間に与える影響や、「病める魂」からの脱出法、さらにはまた、「病める魂」にたいしてあたえられるべき評価につき考察してみたい。 

したがって便宜上、ジェイムズが「病める魂」と名付けたこの精神現象に「神秘体験B」という名前を与え、従来の(道徳的な)神秘体験を「神秘体験A」と呼ぶこととして、この二者、すなわち神秘体験Aと神秘体験B、との関係を考察することとする。

 このような考え方は、日本人には「珍奇な」考え方であると思われるだろう。

 一般に、日本とドイツの哲学者に、「神秘体験には二種類ある」、と説明しても彼らは受け付けない。彼らはかたくなに、神秘体験はただ一種類であり、それはプラトンの昔からそう申し伝えられているからだ、と思い込んでいるからである。

 ライプニッツが、18世紀の初めに、「神秘体験Bなんて信じられない」と、『新人間悟性論』のなかで主張した論点を、今でもそれが正しい主張であると信じ込んでいるのである。

 具体的にいえば、

 昔の枢軸国とよばれる国では、………神秘体験は                                       ただひとつ。

 昔から民主主義国と呼ばれる国では、………神秘体験
                                            は二つ。

と考えられているのが実情である。


 では、神秘体験が二つであるという考え方に立つと、どのような考察が導き出されるのか、その考察は人間についてのどのような精神モデルを提出するのか、最終的には「民主主義とはなにか」という哲学上の論点までを考察の対象として議論を進めることにしたい。

 神秘体験Aでは、読者の直感的な理解を得るために、はじめから上村松篁の例を挙げて理解の簡便を計ったが、神秘体験Bは、理解がそう簡単ではないので、これから実例を挙げてゆっくりと解説することとしたい。

 初めに考察の基準点として、

東京大学の仏教学の先生であった玉城康四郎、

洋画家の林武、

スペインの反宗教改革者とされるアヴィラのテレサ、

臨済禅中興の祖といわれる白隠

の四人を例にあげて、基本的な枠組みを作ることとしたい。

別のタイプの神秘体験ー神秘体験B

写真: William James,
 
         Photographic portrait by Alice Boughton, 1907
          WilliamJames Siteより借用。

         彼の28歳のときのB体験が
         彼の哲学の大黒柱となっている。

        「病める魂」は、
         どのような哲学を
         どのように
         構築するのであろうか?
         いや、
         どのように
         構築できるのであろうか?