西田幾多郎のように、明るい瞬間、つまり彼の用語を使えば「純粋経験」、が唯一の実在であるとする基本的な姿勢を、ウイリアム・ジェイムズは「それはオプティミスティックである」と判定する。そして、オプティミストの作る哲学を、思索の足らない自己満足にすぎないと結論付ける。
典型的な神秘体験Bタイプであったウイリアム・ジェイムズの意見を聞いてみようではないか。
人生とは要するに一本の鎖なのである。もっとも健全な、そしてもっとも富裕な生活にあってさえも、つねに、病気、危険、厄災などの環がいかに多くさしはさまれていることであろう。昔の詩人が歌っているように、歓楽の泉という泉の底から、思いもかけず、苦いものが、立ちのぼってくる、かすかな嘔吐感、喜びのにわかの消滅、一抹の憂鬱、葬いの鐘を鳴りひびかせるものが。というのは、それらのものは、つかの間のものであっても、深い領域から立ちあらわれてくる感じをともない、しばしば、人をぞっとさせるような説得力をもっているからである。止音器が弦をおさえつけるとピアノが鳴り止むように、人生の響きもそれらの感情に触れると鳴り止んでしまう。
もちろん、音楽ならふたたび鳴り始めることができる。――繰り返し繰り返し――間をおいて。しかし、人生の場合には、健全な心の意識は癒やしがたい不安定の感じを残したまま置き去りにされてしまう。それはひびのはいった鐘である。それは、お情けで、いわば偶然に、呼吸(いき)をしているだけなのである。
このような冷厳な瞬間をみずから経験したことのないほど健全な心にくるまれた人間がいるとしても、その人が反省的な人間であるなら、彼は一般化して考え、自分自身の運命と他人の運命とをひき比べてみるに違いない、そして、そうすることによって、自分が難を免れたのはまったく偶然の幸運であって、他人との間に本質的な差異があるからではない、ということを知るに違いない。
(ウイリアム・ジェイムズ、『宗教的経験の諸相』
桝田啓三郎訳、岩波文庫)
彼の生活感情は、完全にペシミスティックで
ある。人生は冷厳で冷たく、いずれは悲惨と落
胆と墓場が私を迎えることになる。つかの間の
歓楽のひとときにも死神がそっと寄添っている。
人生とは「ひびのの入った鐘」なのである。ど
のようにもがいても、ひびの入った鐘からは澄
み切った音は期待しがたい。それは「響き」と
いうものが欠けた暗さと混濁なのだ、とまるで
情けない。このような人間には、いったいいか
なる体験があったのか。それをこれから調べる
わけである。
ひとごとではない。顔はにこやかに、態度は
おだやかに、立ち居振る舞いは柔和な、完璧な
紳士といえども、顔の一皮を剥げば、地獄の思
い出になやまされている人が少なくない。全員
がウイリアム・ジェイムズのように真摯に真実
を語るわけではないから、私たちはこのような
神秘体験Bを経験したペシミスティックタイプ
のひとが、予想をはるかに超える人数で私たち
のまわりに存在していると覚悟してかからねば
ならない。
画題: Egon Schiele,
"Tod
und Madchen"
Osterreichische
Galerie, Wien
高階秀爾『世界美術大全集』第24巻
小学館 1996
死が乙女を抱いているのだろうか。
それとも
乙女が死を望み抱いているのだろうか。
どちらにしても、
そこから逃げ出すべき
明るい展望はみあたらない。