さて、ここでキリスト教とはなにかを調べておこう。

 簡便法として、野田又夫の解説を借用しよう。『パスカル』
岩波新書よりの引用である。

 まずカトリック・キリスト教とはどういうものである
かを想い起そう。最初の人間アダムの堕落という神話に
表現される、人間の「罪」の事實と、その罪を贖うて人
間にふたたび神との交わりを恢復させる神の子イエスの
出現と、この二つの事實によってキリスト教は支えられ
る。アダムの子らは、キリストにおいて示される神の愛
によって救われる。そしてその救いの器官が教會である。
教會は「キリストの身體」として一つの有機的團體であ
って、そこに加わる者に對しては、神の愛の力が、「恩
寵」として注がれる。

 その「恩寵」の注入の管のごときものが、教會の特殊
な儀式としての「秘蹟」であり、トリエントの宗教會議
以來はっきり七つと定められた。すなわち最初の入信の
際原罪を浄め除く「洗體」、信仰を堅くする「堅信」、
入信後の罪の告白とゆるしである「悔悛」、キリストの
肉と血をパンと酒とにおいて受ける「聖體」、臨終にお
ける祝福の儀式なる「終油」、僧侶の叙任式なる「品級」
、最後に結婚を聖化する「婚姻」の七つの秘蹟である。
……キリスト者はこれら秘蹟に與かることによって「恩
寵」を受け、諸々の功徳をつんで聖なるものとなる。

 この「聖化」がきわまるところ、死後に神を眞近に見
ることをゆるされる。すなわち「恩寵」の状態から「榮
光」の状態にいたるのである。人類全體の歴史でいえば、
キリストが一たび現れてから世の終りまでの時期が「恩
寵」の状態であり、世の終りにすべての人間の復活とキ
リストの再臨とがあって、義(ただ)しき者は「榮光」
の國に入る、と考えられる。

 この教義を信じる、信じないは信仰の問題であるから、各人の自
由におまかせすることとして、テレサが狙ったのは教会の秘蹟によ
る間接的な恩寵を賜ることではなく、じつは、神の恩寵を「直接に」
授与されることを狙ったのである。


 玉城康四郎の見た「不可思議なる光」、すなわち「聞(もん)光
力」を見たかったのである。


 林武の「ひたいのあたりがぱっと光り輝く神秘の光明」で満ちた
「歓喜の世界」のなかで「畏怖を誘う実在の威厳」をみずから体験
したかったのである。


 テレサは、三位一体論の、神=キリスト=聖霊という方程式のな
かで、最右翼に位置する「聖霊」の降来を自ら受けたい、と志した
のである。


 神を見るとは、すなわち、聖霊を自らの魂のなかに見ることなの
である。

キ リ ス ト 教 と は な に か ?

画題: Albrecht Durer "The Four Apostles" 1526
      Erich Steingraber "The Alte Pinakothek Munich"
               Philip Wilson Publishers Ltd. 1985

         キリストの使徒のうち三人。
      
St. Markは聖人だが、十二使徒ではないので、
      四使徒と題した
         デューラーが間違っている、のだそうだ。

 つまり、テレサが自叙伝のなかで用いている「恩寵」という言葉
は、じつはその中身は二つにわかれている。一つは神秘体験Aに到
達できない人たちにたいして、(野田又夫の解説のとおり)、教会
がキリストになり代わって(十分の一税あるいは報謝を代償として)
授与する(さまよえる魂を救うべき)神の存在証明であり、もう一
つは神秘体験Aそのもので、ここに到達したとき体験者は「神が恩
寵として恵んでくださったありがたい賜り物」として理解するので
ある。

 イエス・キリストが、魂のなかに存在する聖霊を「それは私だ」
と発言したとはとても思えないが、不思議なことに西暦
381年のコ
ンスタンティノポリス宗教会議以来、この擬似プラトン思想がキリ
スト教のなかに入り込んでしまったのだ。三位一体論については、
あとでまた詳しく研究することとして、私たちは、テレサが17年間
念祷を続けた結果到達した境地と、聖霊の実態を読み進むこととし
よう。