この頃のスペインのありさまを活写したピカレスク小説『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』が、1550年ごろに出版されて大ベストセラーとなった。この本によれば、神様などは糞喰らえであって、人生とは、嘘と追従、機転と素早さで世渡りをするものなのさ、簡単だ、と主人公はふてぶてしく言ってのける。

 この本が、その当時のスペインの特質を活写していたからこそ、ベストセラーになったものに間違いはなかろうが、この本で汲み取ることのできる一般世相と比較すると、見方によってはテレサの悩みは贅沢病であったともいえる。貴族でない下層階級の女性たちは、それこそ生きるか死ぬかの瀬戸際、泥沼のなかを這いずりまわり、金のためには、操も名誉をも売り飛ばしていたのであるから、生きているうちに生きる意味を考えるなんて贅沢で、じつは死んでから初めて生きることの意味を考え始めたにちがいない。

 第一、修道院に出入りしていた、人の魂を救うべき坊主とは、おしなべてケチの権化であり、嘘だと分っていて免罪符を売りつけるペテン師であり、坊主とは水売り商売の元締め、つまり金儲けを目標とする資本家であり、坊主とは自分のめかけを体面維持のために下僕と娶(めとわ)せるものである。

 つまり、金と名誉と地位こそ、人生の最上の価値であることははっきりしている……と、この本の(氏名不詳の)著者は主張するのである。

 あまりにも苦しい戦いで、私がどうしてそれを、たった一ヶ月の間でも忍び得たか、ましてや、これほど長い年月の間、忍び得たかわかりません。何はともあれ、私は、主がいかばかりの御憐みを私に示されたかが、はっきりとわかります。世間との私の交わりにもかかわらず、私に念祷をする大胆さをお許しになったのですから。私は大胆さと申します。                                                                   (自8-2)

 彼女は1537年にご託身修道院で立誓願を立ててから、じつに17年間も念祷を続け、39歳にして初めて「神を見た」のである。彼女の属していた修道院が禁入制のゆるい比較的自由な修道院であったから、外部の世界との交際をつづけたのが、時間のかかった原因かもしれない。でも、大胆に念祷をつづけたのが良かったのだと思う。初めのうちは雑念が出てきて、なかなか意思統一できないけれども、途中で中止せずに、ゆっくりと進めばよい、と彼女は申し述べるのであるが、あまりにも永い瞑想の時間であって、ちょっと信じられない思いがする。

 その間、彼女が実行した念祷とは、たとえば、日本でも平安時代に行われていた観想に近いし、また鎌倉時代以降に禅宗で行われていた、禅定(ぜんじょう)と呼ばれている瞑想ときわめてよく似ている。念祷とは、洋の東西を問わず、求道(ぐどう)の基本線であり、別に日本の宗教と変わるところがあるとは思われない。

 念祷の道にはいりはじめた人は、陥るあやまちにもかかわらず、決して、これをやめてはなりません。……かりに、もしも進歩しないとしても、………とにかく、少しずつ、天国への道を知るようになります。……念祷とは、私の考えによれば、自分が神から愛されていることを知りつつ、その神と、ただふたりだけでたびたび語り合う、友情の親密な交換にほかなりません。                            (自8-5)

⇒ キリスト教とはなにか?
⇒ 観想の方法
⇒ 聖霊(ペルソナ)の現出
⇒ テレサの怯え

ア ヴ ィ ラ の テ レ サ (2)


元々の写真:
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        Avalokitesschvara (Kuan Yin),
        China, 12Jh.
     "Museen der Welt, Die Kunstschaetze im
        Rijksmuseum  Amsterdam"
        Scala Publications Ltd. 1990

        Rijksmuseum  Amsterdamのホームページ
       のなかのThe Buddhist deity Guanyin に
    巨大な拡大写真あり。
        そちらをご参照ください。

     古今東西を問わず
        瞑想は求道の基本線なのか?

 このような事情は、太古の昔から今にいたるまで変わらない。

 自然の要求通り前後の見境もなく行動するこのような人たちを「自然人間」と名づけるならば、その典型は明らかにラサリーリョ・デ・トルメスであろう。だが、その対極には懐疑派もいる。なにかにつけて考えこみ、自然な状態はなにかおかしい、なにかが間違っていると考える。このような反自然人間は、しかし数の上ではいつの時代でも少数派のようだ。

 この少数派である反自然人間の特徴は、彼らが粘液質であることだ。「あゝそう」といってなにごともサラリと水に流すことができない。とりわけ「もう失うものはなにひとつない」と自分で悟ったときに、この人たちは猪突猛進する。

 テレサは明らかに反自然人間であって、失うものがもうなにひとつないと気づいたときに、突然変身した猪突猛進型の人間であるように見える。

 「神は果たして存在するのか」
 「神は果たして私を救うのか」

 このような反自然の命題を掲げて走り出したテレサは、ではいったい、神に到達するためにどのような方法を採ったのであろうか。人間として生まれながら、僭越にも、不遜にも、大胆不敵にも、全てを創造する造物主と直接に体面するためには、どのような心構えが必要なのであろうか。

 時間のかかる苦しい道程だったと、彼女は述べる。

写真:積丹 2002年4月撮影 北海道壁紙フォトスタジオ

http://www.horitaro.com/kabegami/kabegami.htm

より拝借いたしました。