あまり学問のない人々は、神はただ恩恵によってだけそこにおいでになると私に申しました。けれども私は、彼等を信ずることができませんでした。なぜなら、繰り返して申しますが、私には神がおん自らそこにおいでになるように思われましたから。それで、私は悩んでおりましたところ、光栄ある聖ドミニコ会の、深い学識をそなえた一修士が、この疑惑からだしてくださいました。このかたは、神は真実に私のうちにおいでになるとおっしゃり、また神がどのようにして私どもと交わり給うかを、説明してくださいましたので、私はたいへん慰められました。 (自18-15)
では、霊とはそもそも何であろうか。前田護郎は次のとおり述べる。
五感を超えた霊の世界とは、抽象的な精神界ではない。むしろ、五感という人間的なものだは救われないが神に罪をゆるされたよろこびによってこの五感の体が新しく生かされることを感謝する境地から把握しうる。ここで見えぬものが見え、聞こえざるものが聞こえる。五感の人間的な面が否定され、神の恩恵の器としての五感が肯定される。終末の完成に至る前の過渡期としての現在にあるこの論理的矛盾は信仰的に解決する。神の子による救いは旧い世の終末であり新しい国の始まりである。その神の国の完成を、現在与えられた救いの大きさのゆえに今実現したと信ずること、そこに時間を超えた永遠の世界がある。そこに五感を超えた霊の世界がある。十字架の救いのゆえに時も永遠の一部になり、五感も聖められて霊の人となることができる。
(同 250頁)
となると、われわれは逆戻りしてしまったことになる。宗教はまず信じることから入らねばならないというのだから。
テレサは、絶体絶命の境地から出発し、「果たして神は存在するのか」、「果たして神は私を救うのか」の二命題を問うたのであるから、人間が初めから信じることができれば、それに越したことはないのであり、そこには一切の問題は生じない。
私たちが直面している問題は、テレサが独力で到達した「一致の念祷」とは、これが果たして聖霊であるのかどうか、の証明の問題にほかならない。そして、それが聖霊であった場合、三位一体説に従い、キリストであると言い切れるかどうか、の問題にほかならない。その肝心のポイントをはぐらかすわけにはゆかない。
別に問題はないじゃないか。テレサが聖霊と会合し、喜悦の涙にくれた。本人が喜んでいるのだから、なにも問題は生じない、という人がいるかもしれないが、テレサも筆者と同じ疑問を持ったのだ。
通常、このような場合、本人は必ず自分の受けた体験を誰かに裏書してほしい、と望むもののように見受けられる。
もちろん、テレサは彼女自身、この証明の問題につき自ら行動を起こした。彼女は「光栄ある聖ドミニコ会の深い学識をそなえた一修士」にこの点を問いただした。自叙伝の編者は、この修士は多分ドミニコ・バニェズ師だろう、と注記している。彼の返事は肯定的なものであったから、テレサは安心した。少なくとも、彼が否定しなかったことははっきりしている。
画題: Francesco Francia
"Madonna in
the Rose Bower" immediately
after 1500
Erich Steingraber
"The Alte Pinakothek
Munich"
Scala/Philip Wilson
1985
聖霊と会合したテレサは、
バラの咲き乱れる東屋に
落ち着いた。
だが、その安楽は
つかのまの休息にすぎなかった。